人は誰でも生まれながらにして邪悪な心を持っており、状況によっては自然や他人の犠牲無くして生き残れない。
だれでも自分が死に直面した時などは「他人を蹴落としてでも生きたい」という自我の生存欲求が瞬時に生じる。
人目がなければ、積み重ねてある一番上の傷んでる本や賞味期限が迫っている一番手前の食品をあえて選んで買う人はいない。傷んだものをおしのけて、自分だけ新しいものを求めるのは自然の行為である。
それは「魔が差した」というような罪を感じて恥じるものではなく、生まれもった本能から来る当然の行動であるかもしれない。
きれいごとだけで表面を繕い悪を押し隠して生きていても、いざという時は「悪のささやき」に従ったり、自分なりの正義や正論を振りかざして他人を押しのけなければ、人間社会や自然界ではのしあがっていけないこともある。
それが客観的にみて罪業であっても、「自分は過去の人生の局面において常に正しい(やむを得ない)選択をしてきたのだ」と割り切って生きていかなければならない。
著者は「生まれ変わり」という意味での輪廻転生には否定的であるが、生まれもった宿命や先祖伝承の宿業を背負って生きていかなければならないという。 「現在は過去から成り立っている」という視点で語られているが、「現在は未来によって決まってくる」とか「現在・未来が変われば過去も変わっていく」いう最近流行りの運命論は展開されていない。未来の進歩・発展のために過去を悔いない程度に受け止めることも大切なのであろうか。
たとえ現実の実体はなにも変わっていかなかったとしても、見方や受け止め方のフォーカスを変えるだけで(著者のフォーカスとは見たいものに焦点を絞るというより、都合の悪い背景をぼやかして忘れること)見えてる現実は変わってくるかもしれない。
結果的には宿命の中をもがいているだけの現世かもしれないが、新しい言葉や新しい見方による希望の光によって、自由意思で運命を切り開いているのだと実感することが大切である。
だれでも自分の中に悪があることに気づき、悪い自分も認めてこそ、初めて他人の悪も許せるようになるのだろう。