戦地から復員間もない五味川純平は、この作品を一気呵成に書き上げるやその数千枚の原稿を出版社に持ち込み、編集者はそれに魅入られたかのように一晩で読了したという。この小説の密度や面白さを知れば、このことは少しも不思議ではないだろう。しかし、この小説のタイトルを理解するためには少し説明が必要である。
戦争は言うまでもなく、国家と国家との、兵士と兵士との争いである。一方が勝てば一方は占領され(滅亡し)、一方が勝てば一方は捕虜になるか、あるいは殺される。『人間の条件』はこの当たり前の事実を、愛を描くことによって再確認し、戦争にNO!を突きつけている。中国人捕虜に人間的に接したために最前線に送られた梶は、銃弾飛び交う戦場でも、上官の不当ないじめの横行する自軍の兵舎でも、ヒューマニズムを押し通そうとする。しかし、その梶は常にヒューマニズムと愛との矛盾に悩む男であった。自分に銃口を向ける敵兵士を殺さなかったら自分の最愛の美千子を悲しませることになる。しかし、この敵兵士にも愛する妻がいるのではないだろうか、という悩みである。愛を貫徹するためには殺人を犯さねばならない。愛に殉ずるためには人間性をかなぐり捨てて、人を殺さねばならないという事実は重い。おそらく誰にも正しい答えが出せない難問であろう。靖国や無差別テロの時代にこそ梶の悩みを我々のものとして考えるべきである。しかし、とりあえず、一面雪に覆い尽くされた冬の満州に、美千子の居場所まで一直線に線を引き、疲労困憊の身体でそれを踏破しようとする梶の物語を読んでほしい。現代人が忘れた戦争と愛の物語を。