読んでいて面白いなと思ったのは、芭蕉の句がこれだけ残っているのは、本人を良く知っていた弟子たちが、名句だとみんなで言ったからであって、そこには《芭蕉に附き合った人だけにわかっている何か微妙なものがあるのじゃないか》というあたり(p.77)。この話には、小林秀雄が知り合いの骨董屋さんから、李朝白磁の徳利をぶんどるようにしてポケットにねじ込んで持ってきてしまった日の俳句が、たまたま残っていたという前段があります。小林秀雄は死んでしまったその骨董商の息子さんから俳句集に前書きを書いてくれないかと頼まれて、あらためてその俳句を眺めてみると、その人を知っているからこそのおもしろみがあった、というんです。
あと永井龍男の『青梅雨』は読んでみようかな、と。
そして『青梅雨』を激賞したあと、お二人とも素読教育の必要性で意気投合するのですが、ぼくなんかも、素読なんか教えてもらえるような家ではなかったので、そんなのをやってもらっていれば、と憧れに似た気分を持ちますね。
論語の意味なんて、人により、年齢によってさまざな意味にとれるし、一生かかってもわからいかもしれない、それなら意味を教えるのは曖昧な教育であり《丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です》(p.145)という小林秀雄の言い方は、なかなかええな、と。そういえば、岡潔さんも『春宵十話』で丸暗記の力は《練習してのばすとすれば中学三年生ごろが適当で、あとではのびないものだ》(p.24、光文社文庫)と語っていました。