ミステリ短編が二つ、奇妙な話が二つ、そしてあとひとつは洒落た紆余曲折をもった恋愛小説といったところでしょうか。
ミステリらしいミステリを期待すると、どれも少し違うかもしれません。
表題作は、日本推理作家協会賞受賞作。深夜のバーでいきなり、八百メートル走をしないか、と賭けを持ちかけられる発端から、意表をつきます。男は、ハイゼンベルクの不確定性理論から量子力学理論を滔々とまとめ、すべては偶然だなんて人間の尊厳にかかわるから、もっともありえなそうなことをやってみようじゃないか、と話をもってゆくのですが、このあたりの蘊蓄が実に迫力があり、説得されます。大風呂敷なのに、饒舌なところがなく、明快にポイントをまとめており、もしも推理小説の特質のひとつが「明察神のごとき」探偵にあるのだとしたら、この男の語り口こそ究極の探偵のわざかもしれません。
著者の作風は、物語の三分の二くらいにわたって、ひじょうに刺激的な知識や理論をふくらませておき、後半一気に別の方角へひねるものですが、そこで前半の蘊蓄が犯罪の動機や意味に深いうらづけと心理的説得性を与える、という二段構えであることが多いです。さらにもう一度ひねりわざが入ることも。
この短編でも、二度ひねられますが、前半の量子力学と人間の運命の話が実に壮大に決まっていただけに、ひねったわざ自体はちょっとぎくりとするようなものですが、前半との合わせわざで物語としての衝撃ポイントが高いです。少なくとも忘れられない作品です。従来型ミステリというよりも、不可思議な味の前衛小説と言えるかもしれません。
他の作品はやや軽めですが、「北欧二題」や「蜜月旅行」は作者のヨーロッパ体験を活かして、語り口にぶれない確かさがあり、ミステリの謎というより、洒落た短編を読むようでした。
フェイクではない、真正な文学の足取りで、文章が進みます。
著者の長編はすべて読んできて、短編は今回が初めてでしたが、蘊蓄に託して人間性の深淵や業(ごう)を鮮やかに語り、それが一見奇矯な犯罪にも真実の動機を与えている、この作風に強く惹かれます。
〈追記〉
一日おいてもう一度読み返してみましたら、表題作のオチは、それまでの議論(偶然性の深淵)を意外な方向からすくいあげたものになって、ねじれつつも照応していることに気づきました。方法論としての計算が、きちんとこの短編でも機能していたと思います。見事です。