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著者は、共同体が崩壊し通過儀礼が不可能になった近代においては、「成熟」ということが非常に困難になる、その中でいかにすれば「成熟」は可能かという問題意識からスタートします。そして個人が成熟するために通過儀礼に代替するものとしてビルドゥングス・ロマンという物語形式に注目し、いかなるビルドゥングス・ロマンが可能かを探るため、『タッチ』などのコミックを対象にプロップのような形態学的分析を行い、物語構造の抽象を行います。その際に重要なモデルになるのが昔話『猿聟入』で、著者は現代のサブカルチャーの中のビルドゥングス・ロマンに、『猿聟入』と同じ物語構造を見出します。そして、形態分析のあと、『猿聟入』型の物語構造が個人を成熟させる可能性をもつと結論します。
本書は形態分析のパートは興味深かったのですが、結論部分で不明瞭な印象を拭えませんでした。というのもキー概念である「成熟」の規定が明確でないため、結論がぼやけているのです。ムラ社会においては、ムラの再生産の要請に従ってムラと一体化し、社会的役割を果たすようになることが成熟だと理解できますが、近代における成熟とはいかなるものか、本書は必ずしも明らかにしていません。
また著者は、国家に同一化するかたちでの成熟ではなく、個としての成熟の大切さを述べますが、個としての成熟がいかなるものかについても言及はありません。おそらく、形を変えて次々に訪れる現実を受けとめることが、近代における成熟と何らかの関係があるのでしょうが、「成熟」という概念の説明に一つの章を割くべきだったのでは。
批判的なことばかり述べましたが、本書は荒削りながらも相当にエキサイティングな本で、いたるところに重要な論点が潜んでいます。熟読すれば必ず得るものが有りますし、著者の自己言及が多いため他の著作を理解する際の助けにもなります。
現代の日本において、個人が国家という大きな物語に頼らず成熟するには、何をテコにすればよいのか。著者は「物語中の通過儀礼」に注目し、本書は始まる。
著者は婉曲的に、通過儀礼が構造として組み込まれている物語がよいと主張しているかにみえる。しかし、この評価軸は(例えばマルクス主義がプロレタリア文学のみを賞揚するがごとく)ある種の偏狭さを免れない。
そして、「物語中の通過儀礼」は、失われた「通過儀礼」の代替機能を全うするのではなく、「枠組みとして援用される可能性は十分ありうる。(序章)」と述べるに留まり、説得力が弱い。
ところがである。民話の解釈をベースに人身御供、通過儀礼、移行対象論を組み合わせたり、ときほぐしたりしつつ、サブカルチャーの物語構造をあぶり出すという本書の過程は、スリリングで面白い。この面白さが本書の白眉である。少なくとも香山リカをして「驚きを禁じ得ない」といわしめる程度のものはある。
したがって本書は、いかに成熟すべきかというテーマよりもむしろ、どのように成長の物語(ビルドゥングス・ロマン)が紡がれてきたかを分析する作業の妙味にこそ評価すべき点がある。著者の主張に組みしない者であっても、何故か楽しめる不思議な本なのだ。実は本書の成り立ちは、コアの分析作業が先にあり、そこから何を汲み出すべきかという規範的フレームの取り付けは、後付けで行われている。それが不味い皮であるなら、捨てて中身だけを味わおう。
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