人生の唯一の目的は自分が幸福になることであるが、人の一生はただ死に向かって息をするごとに滅びていく過程にすぎない。よって幸福などありえない、という大いなる矛盾からトルストイの人生の意味をめぐる思索は始まる。本書が描かれた19世紀末は、細胞学や細菌学が発展し、進化論が発表され、人間を物質や動物として見る傾向が強まった時代である。しかしトルストイはそんなもので人間がわかってたまるかと一喝する。そして人間の本質は、その不可能にもみえる幸福に到達する道を究めてこそ理解できるのだと説く。現世はそもそもつらいもので、それを耐え忍んで精進すれば来世はいいことがあるとか、人は人知の及ばぬ宇宙の法則に支配されているのだから人生はできる範囲で楽しめばよい、などともっともらしいことを言う宗教者や学者を斬って捨てる。
己の恐怖を克服するための独白のような堂々巡り感が本書にはあり、経文というか呪文のような反復によってテキストの濃度が増していく。その恐怖とは、死への恐怖である。肉体が滅びること、意識がなくなること、存在しなくなること。トルストイはその恐怖をひとつひとつ否定していく。曰く、肉体は生まれてこのかた常に変化しているものであり、その自然の変化の先にある死を先まわりして恐れることはない。また曰く、意識の始まりさえ人は自覚せずに生まれてきたのだから、その終わりをいたずらに恐れることは、入口をくぐって出口をくぐろうとしないようなものだ。肉体の滅びと精神の滅びについては、これで片がついたが、トルストイがなによりも恐れたのは、死そのものよりも、死に意味がないことだった。人生や存在の無意味性の克服はいかにして可能か。その答えをめぐってトルストイの自問自答が延々と続く。
行きつ戻りつしてたどり着いた後も確かめるように反復されるその結論とは、「他人の幸福のために生きる」というものである。人間の幸福を不可能にしているものは自らの幸福を求める個人間の生存競争と、気晴らしにすぎないみせかけの享楽と、誰もが免れ得ない死である、とトルストイは言う。これらはすべて、自分や自分にまつわる人間だけを対象にした限定的な幸福を追求することから生じる障害である。この限定的な幸福を追求することを、トルストイは「動物的な自我の活動」と表現する。それを超越し、幸福な人生と永遠の生命を得るためには、人間は人間だけがもちえる理性の法則にしたがわなければならないと言う。その理性の法則こそが「愛」であると。また、この愛の法則を実行し、万人が万人に奉仕することで、「最大幸福が実現する」と結論づける。
「自分のいのちを惜しむものは、かえって、それを失うだろう。自分のいのちをわたしのために失うものは、かえって、それを見出すだろう」(マタイによる福音書16章25節)。
トルストイはマタイによる福音書からこの一節を引用し、滅びゆく自我に固執することの愚かさを説き、「愛こそ永遠の命にいたる道」と結論づけているが、その思想には多分に仏教的なものがあり、本人もそれを自覚して書いている。「生命にはすべて始めもなければ、終りもない」とは、仏教でいうところの不生不滅であり、キリストの救済によって得られる「永遠の命」とは本来矛盾する思想である。しかし「空」と「愛」をなかば強引に結びつけ、独自の人生哲学を打ち立てるに至った深い思索の轍をたどる過程こそが、本書を読む醍醐味であろう。