最近仕事で素晴らしい人に出会うことが多くなってきました。
その人達を観察してみると、すべからく勉強家なんです。
子どもの頃から、ヘンテコなお受験勉強じゃなくて、しっかりとした基礎を身につけてきたのが分かる。
その基礎の上に、社会人になってからもずーと意図的に勉強をし続けている。
基礎があって勉強の訓練がされているから、その吸収力たるやスゴイとしか言いようがない。
何か新たな問題があっても、解決のための道筋がすぐ見つけられる。
どこを調べたらいいか、誰に聴いたら早いか、どういう論理で導いたらいいか。
この人達に対して説明する機会がぼくにもあるのですが、専門外の話でも本質となる部分はどこなのかすぐ理解してしまう。
どこが幹でどこが枝葉なのか仕分けるのが上手いので、絶対にポイントを外さない。
それどころか、説明もしていないことについても「じゃあそれなら、こっちはこうなるはずでしょ」なんて予想を立ててそれが正しかったりする。
一を聴いて二を知る、十を知るってホントにあるんだなーと思いました。
齋藤孝『人生練習帳』草思社\1400-にこう書いてありました。
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はるか昔から、日本人は、若いうちの予習の効果に気づいています。
子どもには「わからなくてもいいから、むずかしいものを読め」と言っていた。
「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従って、矩をこえず」と孔子の言葉が寺子屋で教えられていたのもその一例です。
三十になったら自分の足で立つんだよ、四十になったらいろいろ迷わないんだよ、最後には、自分の思いどおりにしてもルールを破らないような、そんな人間になっていかなきゃいけないんだよ、と、そいういうプロセスをあらかじめ予習させていたわけです。
ですから、あえて年寄りくさい言葉を幼少期にたくさん植え付けた。(63p)
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今の学校は、勉強の意義を十分子どもたち(とバカ親たち)に伝えられていないように思います。
そんなの勉強したって大人になって役に立たないよ、みたいな雰囲気がある。
先生自体がそう思っているから、授業に迫力が出ない。
最近の生徒の常套句に「それ、何の役に立つんですか」というのがあるそうです。
それにきちんと応えられる先生がいない。
残念なことです。
ぼくは「勉強とは人生の予習」なんだと思うようになってきました。
ぼくは小中学生の頃はあまり勉強はしませんでしたが、高校、大学はまあまあよく勉強したと自負しています。
今になって感じるのは、若い頃の勉強が生きてきたということ。
ちゃんとぼくの基礎になっている。
社会人になりたての頃は、学校で勉強したことなんか社会で役に立たないやと、思っていました。
そういう言説に洗脳されていたのかもしれません。
でも違った。
直接的には役に立たないかもしれないけど、学生時代に身につけた教養は人生のベースになるんです。
その価値に気付かなかっただけ、人生への応用の仕方が分からなかっただけだと思います。
社会人として素晴らしい仕事をしている人たちは、そのことに早くから気付いていたんだと思います。
あるいは、家庭の中に勉強する価値を認める雰囲気があって、親や兄弟から受け継いだ。
特に親の価値観は重要でしょうね。
親が「勉強なんて役に立たない」と思っていると、口に出さなくても子どもには伝わります。
父親が仕事で疲れて帰ってきても、寝る前に難しい本を読んでいる姿。
母親が忙しい家事の合間に、本を読んでいる姿。
時に休日などに親がなにやら楽しげに勉強している姿。
そして家には子どもにはちょっと理解できない高尚な本が並んでいて、親がそれを読んだ形跡が感じられる。
子どもが難しい本を手に取ってみて、ちんぷんかんぷんだけどいつか自分も読めるようになりたいな、と思うこと。
そういった雰囲気を持った家。
そこで子どもは勉強の価値を身につけていけるんだと思います。
我が家もそんな自然な雰囲気を創り出していければなーと思っています。