「いかなる個人の情動でも、他の個人の情動とはけっして一致しない。その不一致の度合いはちょうど、一方の人間の本質が他の人間の本質と異なるに従って、それだけ大きくなる。」(スピノザ『エチカ』第3部定理57)『人格との関係から見たパラノイア精神病』ラカン、朝日出版社、冒頭より
スピノザの『エチカ』(3:57)を冒頭と最終部(p362)に掲げるこの論文は、ピエール・ジャネとフロイトの間にいるラカンの出発点を歴史的に証言している。
ジャネは、フランスにおいて決定論に対する非難の矢面に立った人物で、フロイトよりも先に無意識を発見した人物だ。後の精神分析家たちと違って、人格を重視したジャネの先見性をラカンは十分考慮している(p123,278)。
人格を重視するジャネ(=アンチノミーを維持する人格を想定すればパラノイアは病気ではない)と性を重視するフロイトの両方を視野に入れることで、初めてラカンは「比例的関係」(p379)のなかで病理を位置づけることが可能になったのだ。人格を「構造的」(p44)にとらえるラカンはその人格を分母とし、そのうえに性というよりは患者の主体という分子を位置づけているようだ。これには精神分析におけるフランスとドイツ語圏の研究の違いも関係しているだろう(自動症を重視するフランスと過程を重視するドイツの精神分析研究の差異に関してはp101に指摘がある)。
論文の中間部の臨床報告を受けた後半部はフロイトへ傾斜しているが(p278など)、それでもフロイトが具体的自我と抽象的自我といった「自我」の定義において不十分だと指摘することも忘れてはいない(p341)。
スピノザに関する指摘(エチカ2:49注解、p409)は、パラノイアを一方的な解釈から救い、真の「平行論」(p356)に位置づけるものであろう。
『セミネール』の翻訳が鋭意進行中だとはいえ、臨床から離れた言説としてラカンが語られることが多い現在、このような書籍が気軽に手に入らないのは精神分析や哲学にとって大きな損失だと思われる。