筆者によればこの本で描かれたのは
「戦後史における漢字の肖像」である。
それを読んだ私なりにつたなく言い換えるなら
漢字制限をはじめた戦後から現在に至るまで、
その政策の意義はどう受け取られていたかを
人名用の漢字に関する議論を通じて
論じられたものである。
この本のタイトルを観て最初に思い浮かんだのは
悪魔という名前を子供につけようとした親のことである
漢字を違えて申請したものの
結局、受理されなかったらしいが
一時期、話題になった。
最初の思い浮かんだイメージとは違ったが
この本では、役所で新生児の名前の申請が拒否される事件が
時代ごとにどう受け取られたかが社会意識の変化を見る
重要な鍵となっている。
ただし、拒否の理由はその内容ではなく、
使うことができる漢字の制限からであることは大きく違った。
戦前生まれの恩師の世代の人たちと自分との間で
漢字に対する感覚が違うと思ったことが何度かあったが
そのずれはこんなところにあるのかと読後に
改めて納得させられた。
筆者によれば当用漢字の再検討が始められる
1960年代終わりから1970年代までの議論から
漢字に対する性格付けが変化したのだという。
戦後当初、漢字制限が意図したことばの民主化の達成のため
封建的な性格のイメージがついた漢字を制限する
という目的意識が薄まり
感覚の西欧化
(敗戦後、日本人の感覚が西欧的になり、名前にもそれが影響していること)
個性の時代
(伝統にとらわれない若い両親が、個性的な名前を模索していること)
への社会の変化が、それまでのイメージを払拭し
漢字の「唯一無二性」に注目する方向に転換したということである。
この「唯一無二性」あるいは「個性」に対応するように
人名で使える漢字や、漢字制限自体が崩されていく
コンピューターが使える時代になりさらに
使用する漢字の数が拡大するとともに
異体字が整理されていくことが描かれた。
ただ、唯一無二性に関して筆者は最後に
漢字そのものの意味が失われたとしても
唯一無二性が残るものであることを強調するとともに
<引用 はじめ>
考えてみれば、唯一無二性とは、漢字自身が持っている性格ではない。漢字を使う私たちの意識に存在している性格なのだ。だとすれば、読み方と唯一無二性だけをまとった幹事とは、おそろしく空虚な文字なのだ。
その空虚さの上に、だれかが再び、封建的性格という色づけをすることだって、ありえない話ではないのである。
<引用 終わり>
といっている。
人名用の漢字の制限の議論をおった本ではあるが
確かに、そこから戦後史における漢字の肖像の変化が見える。
著者は漢和辞典の編集者であるが
漢字を偏愛せずに編集する作業に徹したからこそ
見える諸相なのだと納得した。