この本の翻訳は問題が二つあります。一つは、誤訳が驚くほど多いことです。これは以下の【誤訳について】で検証します。もう一つは、この本の基礎にある社会学や心理学の知識を見落としていることです。これは以下の【社会学と心理学】で検証します。
【誤訳について】
何人かの方が、「読みにくい」、「意外に骨が折れた」と書いていたので、原著と翻訳書を比較してみました。原著は
Helping: How to Offer, Give, and Receive Help です。数え方にもよりますが、少ないところでページ当り2,3箇所、多いところで7,8箇所の誤りがあるようです。ここまで誤訳の多い翻訳は最近では珍しいと思います。
一例として、第8章の220ページの翻訳を検討します。ここにだけ誤りが集中しているわけではありません。第2章から第9章まで調べましたが、誤訳は満遍なくありました。
第1行目 一つのグループとしてプロセス化できる
原文 can be processed by them as a group
対案 グループ内で処理できる
第5行目 こうした事実が経営についてどんな意味を持つかといえば
原文 What this means operationally is
対案 これを実際にどんなふうに行うかと言うと
第6行目 CEO が報告を受けているわけではないということだ。また、・・・先に情報を得ているわけでもない。
原文 that the CEO does not get ..., and does not get
対案 CEO に報告しないし、・・・先に情報を知らせもしない。
注釈 方法の説明なので「している」ではなく「する」とすべきです。また、この場合の get は行為の主体を主語にしたほうが日本語らしくなります。
第9行目 CEO は、コンサルタントが・・・発見したものを知らされていないかもしれない。
原文 CEO may not learn what the consultant found out
対案 CEO は・・・知ることがないかもしれない。
注釈 動詞の learn の意味は「知る」であって「知らされる」ではありません。「学ぶ」という意味から「知らされる」という類推が働いたのかもしれません。著者が言いたいのは、コンサルタントの手柄にはならないけれど、ということです。
第13行目 まず報告書を見た CEO が事実上「これはきみたちの問題だ」と言ったようなものだからだ。
原文 the uncomfortable situation of the members put in the one down position by the CEO looking at the report first and in effect saying, "these are your problems."
対案 いきなり報告書を CEO に見せていれば、「問題はお前たちにある」などと言い出しただろう。
注釈 原文の by the CEO は put に掛かります。また、 "these are your problems" は任せるという意味ではなく、責任転嫁です。
直訳 まず報告書に目を向け「問題はお前たちにある」という意味のことを言う CEO によって one down の立場に置かれる部長や部員たちの不快な状況
第15行目 部長と従業員の一部との間の関係
原文 relationships with the department head and some employees
対案 (CEO と)部長や部員との関係
第16行目 CEO はさらに観察したり、コミュニケーションをとったりしやすい対象となるだけでなく、いっそう完璧さを失った身近な存在となる・・・
原文 relationships ... that allow the CEO greater access to the group, which will provide opportunities to observe and communicate as well as becoming more vulnerable and available.
対案 CEO は彼らに大いにアクセスしやすくなり、彼らは反抗力を弱め活用し易くなるばかりか、打合せに同席したり意見を述べ合ったりする機会を与えてくれるだろう。
注釈 関係代名詞の which は the group に掛かります。人間関係が出来て vulnerable and available になるのは CEO ではなく、それまで CEO と対立していた部長とその部下です。なお、 vulnerable の意味は「完璧さを失う」ではなく「抵抗力が弱まった」です。
翻訳を既に読んだ方でも、原著を読めば新しい発見があると思います。今まで霧がかかったようにぼんやりしていたことが隅々までくっきりと鮮やかに見えてきて、矛盾しているように思えていたことがすっきりするはずです。読むのに時間がかかったり分りにくかったりしたとしたら、それは読者の理解力の問題ではなく、翻訳の問題です。
原著の英文自体は高校までの文法の知識と最新の辞書があればそれほど難しくありません。ですが、Schein の文章はドイツ語の癖なのか関係代名詞や文中に挿入される副詞句が多く複雑になりがちです。この本も多少その傾向が残っています。
【社会学と心理学】
この本は社会学や心理学の初歩的な知識に基づいています。翻訳はその点を考慮していません。一例として、第2章の41ページを引用します。
本書 われわれが自分自身や相手に置く価値の程度は、社会的行動や口にする言葉、見せる表情を通じて伝えられる。
この部分は日本語として辻褄が合っています。一見翻訳に問題はなさそうですが、著書はそんな当たり前のことをわざわざ書いてはいません。
原文 The amount of value we attach to ourselves and to each other is conveyed through our social behavior, through the line we take and the face we project.
対案 自分や他人を重視する程度は、社交時の行い、つまり、取る「態度」と示される「顔」で伝わる。
注釈 原文の line は「言葉」(台詞)でなく、 face も「表情」でありません。この二つの言葉が第2章のキーワード(のうちの二つ)なのです。
著者が序文で述べているように、 Erving Goffman の研究が基礎にあります。この line と face は
Interaction Ritual (『
儀礼としての相互行為』)の第1章の論文で議論されています。また、この本の翻訳でいう「敬意と品行」(deference and demeanor)は第2章の論文の主題です。著者はこの本以外でもGoffmanを薦めていますが、難解と感じる方も多いと思います。購入する場合は図書館などで現物を確認されることをお勧めします。
Goffman は line を「言語を使うあるいは使わない行為の様式であって、自分がその場をどう見るかを示し、それを通じてその場の人を、特に自分自身をどう評価するかを示すもの」(私訳)と定義しています。簡単に言えば、言葉や表情や仕草で自分をどう見せたいか、相手をどう見ているかを示すものです。ここでは意訳して「態度」としました。本来は「路線」とすべきかと思います。
また、 face の定義は「特定の交流で自分が取っていたと他人が看做す態度から、自分にあると事実上言える社交上の良い評価」(私訳)です。たとえば、職場などのつきあいで、それまでの「態度」が周りに与えた印象から本人が受ける評価です。日本語の「顔」と似てはいますが、同じではありません。
結論として、引用部分の意味は次のようになります。
人が自分や相手をどう評価しているかは「社交時の行い」(social behavior)で伝わる。その「行い」は「態度」(line)と「顔」(face)に分けられる。「態度」は評価を言葉や表情や仕草で伝えようとするものである。「顔」はそれまでの「態度」が実際に相手に与えた印象を蓄積した結果である。
二人の人がまったく同じ行動をしても、それぞれが今までに与えた印象が違えば受け取られ方も変わります。その時点の「態度」だけでなく、それまでに獲得した「顔」も大切だということです。同じ「顔」と言っても、日本語と意味や使い方が違うことが分ると思います。
【まとめ】
この翻訳は誤訳が多い上に、随所で社会学や心理学の意味を見落としています。これは翻訳書を読む限り気付かないのです。原著
Helping: How to Offer, Give, and Receive Help はこの翻訳の十倍以上の価値があると言っても過言でないと思います。
この本の内容を仕事に活かそうと考える方は原著を読まれることをお勧めします。この翻訳とは全く別の本だと気付かれるはずです。なお、Schein は説明の仕方が読者の理解力に頼るようなところがあり、また、深い意味もさりげなく書いています。原著も見かけ以上に難解かもしれません。