西村賢太を車谷長吉と比較して貶める人がいるが、とんでもないことである。車谷長吉は、タブーというと殺人しか思いつかない平凡な人である。反時代的毒虫などと悪ぶっているが、所詮は単なる秀才である。だから一般大衆に受けるのである。発想がすべて平均的社会人の良識の範囲内なので、巧みなストーリーを安心して読めるからである。しかし私は、車谷が「生き恥を晒している」と言いながら、自分の恥よりもむしろ他人の恥を晒しているところに疑問を感じる。一方で西村賢太は、徹底的に自分の生き恥を晒し、平均的日本人の良識の限界を軽く乗り越えてしまう。だから純文学なのだ。
『人もいない春』の中では、『悪夢―或いは「閉鎖されたレストランの話」』が傑作である。『一私小説作家の弁』(212ページ)には、この短編が「収録に値せぬ」とある雑誌に断られたことが書かれているが、収録を断った人の見る目のなさに驚いてしまう。これは天才の書いた小説である。
「その婦人がスプーンを放り投げ、怪鳥じみた絶叫をあげたのは、そこだけ煮崩れることなく原型をとどめていた、あの特有の規則的な線の走る尾っぽの一部が、ライスの上にどろりととぐろを巻いた為であった。混入したクマネズミをまるまる煮込んだ上で客に出したとあっては、もう救われない。このレストランはたちまち閉業に追い込まれた。」(72ページ)
怪物が書いたと思われるこんなにグロテスクな美しい文章を見たのは、佐川一政の『霧の中』以来である。
『赤い脳漿』では、悲惨な交通事故の話が出てきたのでどんな展開になるかと思ってその後を読んだら、食っていた飯を吹きだしてしまったではないか。
この作家が小説中に用いる「はな」「あきたりない」「〜なあ」「どうで」などの特殊な語法は、すべて彼が尊敬する藤澤清造の小説中に見られるものである。「いやったらしい」という表現は、岡本太郎以外では見たことがない。藤澤清造の『根津権現裏』は、一人の友人の自殺をテーマとした地味な小説である。そこから誕生した西村賢太という小説家は、人間から怪物が生まれた感じがする。