著者は、かつて『学校の現象学のために』で鮮烈な影響を私達にもたらしてくれた。そこでは、特異な(ロングテール上に現れる)現象を、特異な理念ですくい上げる危険が指摘され、大衆的な現象の分析では分厚く存在する(一見目立たぬ)層を押さえる重要性が強く主張されていたはずではなかったか。
しかるに、本書ではどうか? マスコミで話題となったり、身近で見聞きした特異な現象から著者は悉く判断を下そうとしている。一例を挙げよう。学校給食費の不払いで「公共的見地からの正当な要求に対して、〜(中略)自分の権利の方が正当であるかのように強引な主張をするといった手合いが、かなり幅広く存在する」と著者は言う。だが、著者自らが示す文科省の調査で「確信犯的」な未納は全国の児童数の0.6%であり、99%はきちんと支払っているのだ。著者は「『個人化傾向』のよからぬ面、すなわち『大衆個人主義』がいかに巷に蔓延しつつあるか」をこの0.6%に見るのだが、一方そんな(ひどいはずの)世の中でも99%がなぜきちんと支払っているかを全く見ようとはしない。
著者は現代社会に押し寄せる「個人化」が「自分をひとりの公共的人格の持ち主として自己理解させることを妨げるように」作用していると言い、給食費不払いの増加にもそれを見る。だが、かつて不払いが少なかったのは、人々が「公共的人格の持ち主として自己理解」していたからではなく、お上の指示には素直に従う民が圧倒的だったからではないだろうか。「公共的人格」と言うなら、むしろ先の99%の層にその成熟が見られるのかどうか、検討する必要性を強く感じる。昔の著者なら、そういうことを多分理解してくれたはずと思うのだが。
もう一つだけ例を。著者は、鉄道ダイヤが乱れた際の不手際を「しつこく、かつ居丈高に」駅員に追求する客に出くわし、上述の同種現象として著者は「ヒマな頑固オヤジ」と簡単に切り捨てる。が、これは現代の消費社会化の(空間的)現れであるとともに、かつて全共闘が「しつこく、かつ居丈高に」教授達を追求したことに連なる“日本的な風土”の(時間的)現れとも交差している。著者が素通り出来る、無縁な現象ではないだろう。
著者は本書で、民主党の「惨状」を(しつこく)罵倒し、前首相を(居丈高に)「バカ殿」呼ばわりしている。だが、現代の私達は誰でも“鳩山化”する危険を孕んでいるのであり、その底知れぬ恐れを内に抱えて言論を為すべきはずだ。「ヒマな頑固オヤジ」に陥る落とし穴は、至る所に仕掛けられているのだから…。