何を読んだと言えるのだろう。読んだそばからどこまで読んだか忘れてしまうような文章。「小説」と言っていいのか。後藤明生さんの作品のようなどこかへ運ばれていく快感はない。
「九夏前夜」というタイトルを手がかりにすると、青春が終わっていき、人生の夏にさしかかる語り手の語りと思えるけれど、後半では死んだ父や姉の話も出てきて決めつけられない。ただ分かるのは思考の地べたを這うような文章だということ、地べたを這う思考の文章ではなく。青春の混乱のあとに来る虚脱、脱力。精一杯見栄を張って張って生きた若い日々が終わるとき、人間は自分がこれが自分であると思う言葉では、本当は統御できない、言葉と欲望に振り回される、ただの乗り物でしかないんじゃないかと思える、気づく、気づける、短い瞬間のルポタージュ。本当はこんなもんじゃないかと言葉で表そうとすると、浮かび上がる「みっともない」人間=生物の生(なま)すれすれ。
「渋谷の飲み屋でそういうわけでわが祖母はマルクスよりもダンテよりもすごい人であってゆえにねえ結婚してなどと泥酔して言い女にふられたのも今ではいい思い出ですがもうこの男何とかしてくれ誰か」
これが発表されたのは、『切り取れ、あの祈る手を』がヒットしたことによるのだろうと思う。一読者から見れば、よく発表できたな、でもやっぱり通過儀礼的な作品じゃない? とは思う。