この文庫本は昨年出版されたが、久生十蘭が岩波文庫に入ったことはちょっとした出来事だったようで、私もそれがきっかけで本書に興味を持ち購入するに至った。
この短篇集の大きな特徴は初出紙誌を定本としているところだろう。ちなみに、現在刊行中の『定本 久生十蘭全集』(国書刊行会)は著者生前最後に公表された本文を定本にしているそうだ。この作家には「執拗な改稿癖」があったようで、読み比べてみるのも一興かもしれない。本書編者の川崎賢子氏はそちらの全集の編者の一人でもある。氏はおそらく久生十蘭という作家を一番よく理解している研究者の一人であり、全集の刊行と同時進行でこの文庫版を編まれたはずである。したがって、ここにはこの作家の精髄が示されているといっても過言ではあるまい。
久生十蘭といえば推理作家だろうぐらいにしか思っていなかった私も、ここに収められている短篇群を通読して、何よりもまずそのテーマの多様性に驚いてしまった。むしろ推理作品の要素は少ないくらいだ。また、様々な文体が駆使されている点にも驚いた。「春雪」のような純愛物があるかと思えば、「無月物語」や「泡沫の記」のような歴史物、はたまた「鶴鍋」のような何回か読まないと分からない難解な作品も含まれている。また、女性の電話での一方的な会話体で書かれた「猪鹿蝶」などを読むと、男性の作家がここまで女性らしい会話体を駆使できるものかと驚いたりもした。ちなみに私の一番のオススメは「蝶の絵」である。その最後の一段落は絶品である。
最後に、この値段で15篇の作品(総頁数約400頁)が収められているというのは、相当良心的な価格設定であると言っておく。同じような好短篇集に、『怪奇探偵小説傑作選3 久生十蘭集 ハムレット』(ちくま文庫)があったが、惜しむらくは絶版となってしまった。こちらには14篇(総頁数約470頁)が収められており、値段も本書に近い。一方、講談社文芸文庫から出ている『湖畔・ハムレット 久生十蘭作品集』には7篇(総頁数約250頁)しか収められていないにもかかわらず値段はずっと高い。ちくま文庫版が絶版になったいま、本書は格好の十蘭入門書としても広く読まれることになるだろう。
※作品名を一部訂正致しました。