「幸せな家庭はどこも似たようなものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものだ」とはトルストイ作『アンナ・カレーニナ』の冒頭の一文である。
本書の冒頭「1.歓待の思考」にも、次のようにある。
「マイノリティと呼ばれる存在の第一の特徴は、マジョリティと呼ばれる存在とは比較を絶する多様さにおいてあるということである」
その多様さを前にして、ジャーナリズムやアカデミズムの側に身を置くものは、それらを区分し、ひとつひとつに命名する。例えば、「ワーキングプア」と。例えば「ニート」と。命名される側の論理を言えば、つまり学問や報道の対象とされる側の論理で言えば、こうした行為はいずれも暴力である。しかも、名指されないことも無関心、無視という暴力であると著者は続ける。
「ホームレス」「路上生活者」「ジプシー」「ルンペン」「レゲエのおっさん」「野宿者」それらには様々な政治的イデオロギーがまつわり、「現場」感覚、思想的スタンス、NPO的振る舞いなどとともにドンドン意味を飽和させてゆく。
読者はこの冒頭の論考から、行きつ戻りつ深く考え込まざるを得ないだろう。この素朴で大きな問いが、その後に登場する「日の丸」「パレスチナ」「テロ」「イラク戦争」等といった話題にも執拗主題として一貫して響いている。頭を抱えて悶々として考え抜くという「読書本来」の課題に伍する1冊だ。
レバレッジ・リーディングや速読テクニックなどは軽く跳ね除けられる。
その彼方にしか「歓待」はあり得ない。読書とは本来そういうものである。