ブッダ釈尊の教法「八正道」を理解するために、釈尊自身の論理に従って私が独自に整理したものを次に示す。
------------------------------
菩提分:慧1 ⇒ 信 ⇒ 戒 ⇒ 勤 ⇒ 念 ⇒ 定 ⇒ 慧2
道 諦:身1(色)⇒感情1(受)⇒ 心1(想) ⇒ 感情2(受) ⇒身2(色)⇒心2(行・識)⇒無明
八正道:正見1 ⇒正思惟⇒正語・正業・正命⇒正精進⇒ 正念 ⇒ 正定 ⇒ 正見2
四念処: 身 → 受 → 心 ――――――――――――――――→ 法
七覚支: 念・択法・精進・喜・軽安・定→捨
( 身 受 心 法 )
------------------------------
注目すべきは『Anapanasati Sutta』が説く四念処と七覚支の関係を明確に示したことである。
「七覚支」とは「正念」が働いている「四念処」に他ならない。すなわち、念覚支≡正念、択法覚支=正念の働く身念処、精進覚支=正念の働く正精進、喜覚支=正念の働く受念処、軽安覚支=正念の働く心念処、定覚支≡正念の働く身念処・受念処・心念処を元にした正定、捨覚支=正念の働く法念処である。上図の意味は、修行の進み具合に応じて、八正道を何度も繰り返し、あたかも拡大するスパイラルを描くように修行が拡大・発展することを示している。だから、最初の正見1は第一回目の八正道を終えること頃には正見2へと進化しており、それが正見1に置き換わって第二回目の八正道を終えると正見3へと進化する訳である。
本書を読みながら、私の理解が間違ってはいないことを証明する経典を見つけることができた。
それは、『第24 中継車経』であり、この中でプンナ尊者は次のように述べている。
「戒の清浄は、心の清浄までを目的とする。心の清浄は、見の清浄までを目的とする。見の清浄は、疑の超越の清浄までを目的とする。疑の超越の清浄は、道・非道の智見の清浄までを目的とする。道・非道の智見の清浄は、行道の智見の清浄までを目的とする。行道の智見の清浄は、智見の清浄までを目的とする。智見の清浄は、執着のない完全な涅槃までを目的とする。」(p.393)
この言葉を簡単に説明すれば、「見の清浄」の「見」が上図の「正見1」である。「道・非道の智見」とは上図の「択法覚支」であり、「行道の智見」とは上図の「喜覚支」および「軽安覚支」である。そして「智見の清浄」が上図の「正見2」である。
このことは、パーリ仏典中部『中分五十経篇1』第65「パッダーリ経」(p.263)でも確認できる。そこで説かれる「十の法」の最初の「八法」が「八正道」であり、第九の法「正智」が「正見2」であり、第十の法「正解脱」とは最後の「正智n(n=2,3,4,5, … )」を具えた後に獲得されるもの(阿羅漢果)である。
なお、上記図解は、「十二支縁起」に「釈尊の基本的な教法」を導入して得られたものである。その過程で、<「行」が「識」に吸収され、「六処」が「触」に吸収され、「愛」が「取」に吸収され、「無明」は別格として扱える>ことが明確になった。従って、それらは潜在化して消える可能性がある。著者がパーリ仏典長部『大篇1』第15「大因縁経」の梗概(p.11)で「この(九支)縁起は、十二支縁起における無明、行、六処を欠くものである」と論じているが、そうではないのである。「行」は「識」に、「六処」は「触」に包含されているのである。