ブッダ釈尊の教法「八正道」を理解するために、釈尊自身の論理に従って私が独自に整理したものを次に示す。
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菩提分:慧1 ⇒ 信 ⇒ 戒 ⇒ 勤 ⇒ 念 ⇒ 定 ⇒ 慧2
道 諦:身1(色)⇒感情1(受)⇒ 心1(想) ⇒ 感情2(受) ⇒身2(色)⇒心2(行・識)⇒無明
八正道:正見1 ⇒正思惟⇒正語・正業・正命⇒正精進⇒ 正念 ⇒ 正定 ⇒ 正見2
四念処: 身 → 受 → 心 ――――――――――――――――→ 法
七覚支: 念・択法・精進・喜・軽安・定→捨
( 身 受 心 法 )
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この整理の眼目は、『Anapanasati Sutta』が説く四念処と七覚支の関係を明確に示すことである。「七覚支」とは「正念」が働いている「四念処」に他ならない。すなわち、念覚支≡正念、択法覚支=正念の働く身念処、精進覚支=正念の働く正精進、喜覚支=正念の働く受念処、軽安覚支=正念の働く心念処、定覚支≡正念の働く身念処・受念処・心念処を元にした正定、捨覚支=正念の働く法念処である。上図の意味は、修行の進み具合に応じて、八正道を何度も繰り返し、あたかも拡大するスパイラルを描くように修行が拡大・発展することを示している。だから、最初の正見1は第一回目の八正道を終える頃には正見2へと進化しており、それが正見1に置き換わって第二回目の八正道を終えると正見3へと進化する訳である。
この整理によって、本書の「第43 大有明経」のp.332の「正見」の説明が良く理解できるようになる。「観の正見」とは上記「正見m」に対応し、「道の正見」とは上記「正見n」(m<n)に対応する。「正見」の二縁である「他からの声」と「正しい思惟」とは、釈尊が法を説く前に凡夫の機根を調べるための第1段階の説法<因果業報(善因楽果・悪因苦果)の道理を説く、施・戒・生天の三論の思想>を「釈尊からの声」として受け入れることと、第2段階の説法<因果の道理を正しく信ずる段階(随信行)で始まる「欲の禍患と離欲の功徳」>を「正しい思惟」によって理解することである。
さらに、「正見」を支える五つの部分とは、「聞」≡「正見1」、「議論」≡「正思惟」、「戒1」≡「正語・正業・正命」、「止」≡「正精進」、「観」≡「正念」、「戒2」≡「正定」である。ただし、『戒』=「戒1」+「戒2」なので、その重要性から「戒」を最初に持ってきているのである。
また、第44「小有明経」p.344の説示と漢訳雑阿含経「巻第五(105)仙尼経」等を比較すれば、自我に関して理解が深まる。前者は自我を<(1)五蘊は我である、(2)我を五蘊のある(付随する)もの、(3)五蘊が我の中にある、(4)我が五蘊の中にある>の四つに分類し、後者は自我を<(a)我[自我は五蘊と合一]、(b)異我[自我は五蘊の外にある]、(c)相在[自我は五蘊の中にある]>の三つに分類する。両者の対応関係は、(1)≡(a)、(2)≡(b)、(4)≡(c)となる。(3)は「五蘊は自我の心の中にある」という意味なので、これは「唯識」である。これを理解すれば、非我ではなく無我が用語としては適切であることが理解できる。なお、上記漢訳経典では(1)≡(a)は「断見」、(2)≡(b)と (4)≡(c)は「常見」である(当然(3)も「常見」である)とし、「如来応等正覚見」が五陰(五蘊)と与陰(与蘊)と化合の我を用いて説示されているが、上記パーリ経典にはその解説が見あたらない。
最後に、最新刊の相応部「有偈篇1」には禅宗の公案の源泉が説かれており、本書の中部「根本五十経篇2」の第32「大ゴーシンガ経」(p.143)には前著の中部「根本五十経篇1」の第24「中継車経」(p.383)と同様に、真言密教の護身法の最初の作法に唱える「戒・定・慧・解脱・解脱知見の五分法身を磨瑩(まよう)す」の用語が「十論」者として説かれているのに驚いた。パーリ仏典は仏教各派が訪れるべき故郷である。