本書は二部構成全700ページからなる大著ですが、欧州近現代史に興味のある方、特に「物語 スイスの歴史-知恵ある孤高の小国」「黒いスイス」「幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ1945夏」「国際決済銀行の20世紀」といったスイスを舞台にした本を読み、スイス史に興味を抱いた方にはお勧めの書籍です。
二部構成となっている同著にて、第一部は、スイス「独立専門家委員会(ベルジェ委員会)」が2002年に刊行した「最終報告書」の翻訳です。
1990年代半ばの国際的な非難(戦中にドイツから購入した略奪金塊、戦後のホロコースト被害者の休眠口座に関する問題)を受け、スイスが連邦政府レベルで設置したのが、この独立専門家委員会であり、同委員会が、第二次大戦中のスイスの役割と行動について約5年間の検討の結果を総括したのが「最終報告書」です。
筆致から、大戦中枢軸国に周囲を囲まれたスイスがいかにリアリストに徹したかという点が、従来タブーとされてきた視点も含む様々な角度から掘り下げられ、大変興味深い内容となっています。記載内容を要約するのは無謀ですが、思わず唸ったのは以下の記載です。この記載だけからでも当書の価値が理解出来るかと思います。
1.スイスは当時人口430万人の小国だが、一方で多国籍企業もかかえる経済大国という面もあった・・・低い食料自給率・・・
生き残りの為には、連合国の海上封鎖と第三帝国の大陸反封鎖の二重の封鎖線を可能な限り通過可能なものにし、
また統制処置ができる限り緩やかに運用されるよう、巧みな交渉を行う必要があった。(第二章 国際情勢とスイス)
2.スイスにも反ユダヤ主義は存在・・・。
入国するドイツ人がユダヤ系か区別する為、パスポートへのユダヤ人識別スタンプ(Jスタンプ)の導入を
1938年の段階で行った・・・。
1942年8月に、ドイツのユダヤ人政策のエスカレートを知っていた筈なのに、国境を封鎖。この当時、スイスを
「超満員の救命ボート」に喩える連邦閣僚も存在。一方で難民送還に反対を唱える民間人も居た。(第三章 難民と難民政策)
3.戦中のドイツ・イタリアとの興味深い経済関係:
戦争の最終段階までも、クリアリング協定によるドイツへの信用供与、武器輸出、電力の供給、
鉄道輸送路の提供(アルプス南北路)、金取引、銀行取引を続けた。この反面、ドイツ了承下、ドイツ勢力圏を
越えての連合国との貿易も、ある程度まで認められていた。(第四章 国際経済関係と資産取引)
4.ドイツ再軍備にあたってスイスが果たした役割(第四章 国際経済関係と資産取引)
5.戦中にドイツにより略奪され、スイスに移送されたと言われる資産の返還は、公序を主張するスイス当局の粘りと、
冷戦の影響で次第に等閑視され、うやむやにされてきた。(第四章 国際経済関係と資産取引)
本書の統計によるとスイスから日本への武器輸出も1943年まで存在します!私が推測するにこれは日本陸海軍向けのエリコン機関銃(零戦他に搭載された20ミリ機銃)かと思うのですが、本書に記載のある二重の封鎖線ならぬ「三重の封鎖線」を突破して、日本にどのように輸出を行っていたのか、仮に現物移転を伴わないライセンス費用の決済であったとしても、戦中に代金決済をどうしていたか等非常に興味があります。
一方、第二部では「スイスの近現代史と歴史認識」との切り口で、第一部の問題設定の拡張や補足を、邦人研究者が行い、日本では馴染みの薄いスイス近現代史に光をあてる内容となっています。
内容はスイスに拠点を置く多国籍企業の戦争への対処、国境を越えた一体性を持つ地域(スイス・フランス国境地域)が戦争で如何なる影響を得たか、スイスのユダヤ人解放の歴史、スイスの戦前までの外国人政策、(第一部を纏めた)独立専門家委員会発足と報告書成立までの歴史的背景の検証等、多岐に渉っています。
中でも私が読み応えがありましたのは、第一章の「多国籍企業・小国経済にとってのナチズムと第二次大戦」であり、ゲオルグフィッシャー、ロシュ、ネスレ、ユニリーバといったスイスに発祥を持つ多国籍企業が、戦中も連合国・枢軸国双方に軸足を置き、会社分割、勢力圏ごとの持ち株会社化、中立国を利用しての通信確保と言ったあの手この手の手段で、戦中も各勢力圏内で生産を継続し、戦争を生き延びてきたことが豊富な資料で解析されています。
現在の企業ガバナンスや移転価格税制にも通じる問題に、1930年代から既にスイス企業が直面していたことは驚きですが、ネスレが1948年の時点で冷戦下、第三次大戦の勃発すら見据えた企業戦略を立案していたという凄みは、混迷の日本としては何か考えてしまうエピソードではないでしょうか。
編者は2004年以降、大変な苦労の末、遂に上梓に漕ぎ着けたとのことで、今回の発刊は入魂の作品と思います。今後の著作が待たれます。