1997年7月以降、香港は中国の主権の下に置かれているが、よく知られているように、中国は返還後の香港に対する統治に社会主義を用いていない。これを「一国二制度」という。本書は、この「一国二制度」に関する研究書である。自分も含めて大多数の日本人にとって、香港はグルメとショッピングの楽園だが、本書を読むと、楽園を楽園たらしめる仕組みがよく理解できる。これは普通の観光旅行を何度繰り返しても実感できないだろう。その意味で、本書は究極の香港ガイドブックであり、当方が最近読んだ海外事情に関する書物の中で最高の知的興奮を味わえた一冊であった。
「一国二制度」は、返還前からアジアの物流・金融センターとしての地位を確立していた香港の特性を活かしたまま、英国から統治を引き継ぐ効果的な方策なのかもしれない。だが、中国の置かれた状況を考えたとき、香港への「一国二制度」の導入は必ずしも自明の解ではない。体制内に全く異質の統治原理を取り込むという発想は、国内に分離主義の火種を抱える中で、統合をさらに推進しなければならないと考えている為政者にとって、本来かなり危険なもののはずである。実際、チベットや新疆で、中央政府の統治に対する大規模な異議申し立ては、今でも繰り返されている。それでもなお、中国が「一国二制度」に踏み切ったのは何故か? また、香港の市民が(少なくとも形式上は)北京の統治を受け容れているのは何故か?
本書は、返還後の香港と大陸の関係の推移を、様々な側面から分析することを通じて、上記の問いに対する答を示そうとする。分析の視角は、以下のように多岐にわたる。
(1)政治的側面1:香港政治エリートに対する中央政府の統制構造
(2)政治的側面2:行政長官、立法会議員の選挙制度の変遷をめぐる政治過程
(3)社会的側面1:香港・大陸双方のマスメディアの動向分析
(4)社会的側面2:住民の帰属意識(「香港人」か「中国人」か)
(5)経済的側面 :大陸のプレゼンス増大に伴う香港・大陸関係の変遷
本書は、いずれについても新聞・雑誌報道や統計といったリアルタイムで大量に生み出される一次資料を丹念に収集し、返還後の香港に生じた変化を丁寧に説明する。その上で、「一国二制度」の含意と今後の展望について、極めて示唆に富む議論を展開する。詳細は本書(とりわけ終章)をお読みいただくとして、ここで鍵を握るのは、「一国二制度」の産みの親とされるトウ小平(Deng Xiaoping)である。
また本書は、香港の政治制度やメディアの状況(どの党派・メディアが大陸寄りと目されているか等)に関する基礎的な知識も整理しているので、当方のような門外漢にとっては、香港の政治・経済・社会についての良質な入門書になってくれた。著者の博士論文をベースとした学術書であり、読むには相応に骨が折れるが、年に3回は渡航しないと気が済まないという香港フリークの方に是非ともご一読を薦めたい。見慣れたあの街角が少し違って見えるかもしれませんよ。