草森紳一の遺作となった「中国文化大革命の大宣伝」を読了した。足掛け11年にわたり月刊「広告批評」に掲載された大作、字数にして100万字を読み通すには相当なエネルギーが要った。天野祐吉氏によれば草森氏は連載した文章を単行本化する場合、大幅に加筆訂正するのを常としていたので、もし彼が生きながらえて単行本化していたなら、おそらくその字数は軽く160万字を超えることになっただろうと推測しているが、これは妥当な数字だろう。なぜなら同じく草森紳一氏が書いた名著「絶対の宣伝 ナチスプロパガンダ」も全四巻からなら大作となっているからだ。
それにしてもだ。本書を読了して思い知ったのは、中国人というものは、中国人の政治家とは、なんと日本人とは懸け離れた存在であるということだ。中国人政治家の本質は世の中というものを徹頭徹尾権力等その場ととらえる「権力の動物」であり、人間の命をなんとも思わない冷血動物であり、政治の全ては宣伝であると平然とウソをついたうえで恬として恥じることの無いデマゴーグの塊であるということだ。
私は1960年の生まれだ。田中角栄首相が中国へ飛んで日中国交回復した1972年当時、私は小学校6年生だったが、その年、街中のおもちゃ屋はパンダのぬいぐるみで溢れ返っていた。中国とはパンダをただでくれる気前の良い国、日本に対し同じアジアの国として親近感と連帯感を持っている人たちの住む国と当時の小学生の大半がそう思っていたのではないか。「同文同種」「一衣帯水」という言葉が当時流行した。周恩来は日本に留学したことのある教養人で日本と日本文化に敬意を抱く教養人、中国で言うところの「大人」というイメージが日本中に広く定着していた。毛沢東は「偉大な指導者」というイメージ一色で塗りつぶされていた。彼に関するネガティブな報道は全く無かった。体格が良くて、いつもニコニコし、元気良く片手を上げて中国の大衆に挨拶する毛沢東。その彼が、まさか「Great Leap Backward」とバカにされている「大躍進政策」で中国経済を破壊して中国を大飢饉に陥れ、数千万人を餓死させて権威が暴落し、代わって中国国家主席の座を劉少稀らに乗っ取られそうになると、子どもを焚き付けて「走資派」を追い落とす紅衛兵運動を展開して権力の再奪取を試み、その課程で同じく数千万人の中国人を死に追いやった「文化大革命」を敢行中であったとは、つゆほども知らなかった。知らされていなかった。
それから7年後の1979年。私は国立の超一流大学に現役で合格した。その年、奇妙なことが起こった。アフガニスタンにソ連が侵攻したことで、それまで辛うじて繋ぎ止めていた「共産主義国家は平和勢力」「社会主義国家は侵略戦争はしない」というデマが完全にウソであることが明々白々になり、ソ連の人気が大暴落しロシア語を第二外国語として選択する学生数が激減し、かわって中国語が異常な人気を集めるようになったのだ。しかし、当時の学生は、超一流大学に合格していようとも、まさか周恩来が米中国交回復の影で「好戦国家日本の危険性」について意見の一致を見ていたとか、中国が既に国を挙げて「東洋鬼子=小日本」に対する敵愾心刷り込みを教育を通じて大々的に行おうと準備していたとかは全く知らなかったと言っていい。
要するに我々日本人は丸ごと中国人の「大宣伝」に騙されていたのだ。「騙されていた」ことの代表例が馬王堆漢墓から「出土」したという女性遺体の話だ。これは朝日新聞を先頭に大報道がなされたので今でも良く記憶している。「死体が二千年あまりの年月をへても腐らず、ミイラにもならず、完全な状態で保存されているのは奇跡といわねばならない」「痛いは約20枚の各種の絹の衣類で包まれ、阪神はほぼ赤色を呈した水に浸っていた。研究の結果、遺体の皮下にある組織には弾力があり、繊維もはっきりしている」。。。どうしてこんな「奇跡」が可能だったのか。そのメカニズムを解明すれば現代の科学の進歩に大いに貢献したことだろう。遺体は炭に覆われていたから「炭のパワー」だとか「80リットルの黄色い液体に浸っていた」とか騒がれた。これらが解明されれば様々な分野に貢献できたはずである(毛沢東の遺体の保存方法だった大きく変わっていたはずだ)。ところが、あれから30年以上経った今も、この漢墓の謎はナゾのままなのだ。中国当局曰く「検討中」と。要するに中国政府にとって、すべてが宣伝の材料であり、宣伝さえ完了すれば、後は野となれ山となれというのが著者の草森の見立てだ。文化大革命で国中が疲弊しきっていた当時の中国にあって、「中国四千年の偉大な歴史」を世界に宣伝することが当時陸続として現れた「大発見」の唯一の目的であり、その宣伝さえ完了すれば、そんな遺体保存のメカニズムの解明なんて「どうでもいいこと」なのである。同じことは中国の滑稽節の大パレードにも言えると草森は言う。1965年、中国の建国を祝う国慶節にあわせ中国は「全国運動会」を北京で開催したが、その運動会の目的は開会式に挙行されたマスゲームそのものにあって、運動会自体は「つけたし」だと草森は喝破する。マスゲームのような大宣伝はその場の会場にいても全体像は見えないし理解できない。唯一理解できるのは貴賓席に鎮座する毛沢東以下の中国共産党幹部と、後はテレビの前で画面を見ている世界の観客らだけだ。マスゲームの目的はテレビ映像を通じて世界中に中国の偉大さを宣伝することであって、その場に居合わせた人はどこで何が起きているかさっぱり分からない仕組みになっている。それで良いというのが宣伝国家中国の割り切りなのである。同じことは、スケールをより壮大にした形で昨年の北京オリンピック時に再現された。事前に撮影していた「巨人の足形」をした花火の映像を画面上に合成したり、壇上で独唱した美声の美少女は口パクだったとか(歌声の持ち主はブスな少女だったので直前に主催者側にチェンジさせられていた)、中国が如何にこの北京オリンピックにエネルギーを注ぎ壮大な虚構を世界に向けて演じたかを我々は知っている。さすがにこのやり過ぎには世界中から非難が集まり、かえって評判を落としたのではあるが(笑。
冷厳なる事実は、「中国に対する如何なる見解を持とうとも、我々は中国と未来永劫付き合っていかねばならない」ということである。しかし、その為には、中国とはどういう国か。中国人とはどういう連中なのかを我々は正確な形で把握していく必要がる。ゆめゆめ「同文同種」「一衣帯水」などという内容空疎な中国式の宣伝術に乗せられてはならない。「これからは中国だ」と第二外国語に中国語を選択し中国に夢をはせた同期生は、その後、反日感情渦巻く中国で途端の苦しみを味わい、中国事業で生じた莫大な損失の責任を取らせれたりしている。体の良い紅衛兵の下放である。
こうならないためにも我々は中国という「やっかいな隣国」を冷徹に観察していかねばならない。草森曰く「日本人は中国人の宣伝に乗りやすく」「赤子の手をひねるがごとき存在であった」そうだが、そういう贅沢は、もう許されないことを我々は知るべきだ。
自国を巨大に見せるためには平然と事実を捻じ曲げるのが「やっかいな隣国シナ」である。そのシナと付き合っていけねばならない日本人は、本書を読んで、「巨大なる宣伝国家」の実体をしる手がかりを見つけよう!