1949年、蒋介石国民党との内戦に勝利した、共産党は1949年に北京で毛沢東は勝利宣言と、中華人民共和国の建国を宣言した。其処から中共の歴史は始まる。1950年代の中期から、毛沢東は全国的な工業化政策を提唱した。それを「大躍進」という、そして、その為に全く幼稚な段階での、無茶苦茶な工業政策が、現に実施され、それは1950年代後半に、国内の食料生産に重大な破局をもたらし、飢えの為に1200万人の餓死者を出したと言われている悲惨な出来事である。この実力を無視した、無謀な政策の責任は、全て毛沢東にある。それが、無謀な事を実務派は知っていたが、独裁権力を握る妄想家毛沢東に反対する事は出来なかった。その客観的な無謀さは、自国の実力を知る事の無い独裁者の一人り舞台である。その、余りにも多すぎた犠牲の責任を問われ、自身の足元を崩壊させた毛沢東は第一線を退く事になった。しかし、この男にはゲリラ戦の指導者的強引な無謀さがある。その後は、国家主席劉少奇に指導されたより資本主義的で合理的な政策がテクノクラート層に志向され、順調な回復が見えるに至りしも、1960年代中期に再び毛沢東による、一種のクーデターとも云い得る「文化大革命」と称される、毛沢東の実権奪取があった。劉少奇を始めとする実務派に対する、所謂、青年層である紅衛兵を扇動した反乱を起した。この「文化大革命」は、中共の歴史に、重大な歴史的後退を強いて、国内の文化的読書人は、地方に追放された。この時トウ小平も劉少奇と同様に失脚せざる得なかった。「文化大革命」という十年に亙る四人組とその手下による中国文化の破壊は、長い中国の動乱の歴史中でも特異な物であったろう。
文化大革命が終焉したのは毛沢東の死亡と、それに次ぐ四人組の失脚まで続いた。再び復活した、トウ小平はその政策を従来の開放政策、つまり資本主義的な方向に舵を変えた、これは、劉少奇の路線でもあった。そしてトウ以来の開放政策がもたらした経済的資源を元に、二十一世紀に入った段階で、経済的黒字と資金を背景に、中共の党指導層(この中には如何なる背景の、如何なる人物が居るかは、詳細には述べられては居ない)は、軍備の拡大を志向し始め、新たな包括的覇権拡大政策という冒険主義的な拡張政策を志向するに至った。むかしトウ小平は、「中国は全ての覇権主義に反対する」との宣言をしていたが、トウは、どの程度、本気でそれを語ったのであろう。「中国は如何なる覇権にも反対するし、中国はどんな意味でも覇権をする積りは無いのだ。この基本事項を中国が破ることがあれば、それは全世界が、中国を滅ぼしても正当な行為である」、トウは確か、この様な意味の事を宣言していた筈であるが、トウの死後、このテーゼは、その場凌ぎの虚言に過ぎなかったのであろうか。現代中国の覇権主義者が、経済的反映を軸に、軍事的な威圧による威嚇的行為を続けるならば、最早無策ではいられないであろう。この政策決定に関するメカニズムを、中枢と目される多くの人物へのインタビューと共に、政策決定の中心的な過程を分析する事によって政策決定過程とその源泉を探る試みの一つである。政策決定に関する幾つかの基本的背景のグループがあり、その中には、一つは党の指導層、二つは、海外に留学しその国の方法を習得したシンクタンクの要員、知識人、国内のエリート層、三つは、軍及び諜報機関、四つは、もしそれが有るとすれば、海外の国家に巣食っている華僑から成るであろう。もしも、この先、中国が経済力を背景にした軍事的影響力で、東アジアの国境や資源に、何等かの変更を加えようと目論むならば、その責任はすべて共産党指導部が負うべき物である事を強く警告すべき義務が日本国にはある。この文庫の分析は初歩の入門であろうが、日本の若者が、国際関係の、この様な本を読む事で、東アジアの政治情勢を冷静に分析し次なる行動の為の、試金石となる事が重要なのであろう。
トウ小平が、資本主義的経済活動を導入して以来、中共は海外資本を呼び込んで技術を買い、有り余る労働力をふんだんに利用し、初めに繊維産業で生産した商品を世界中に売り込んで貿易黒字を貯め、海外の債権を買いあさった。その黒字を武器に、最近では軍備の近代化に乗り出した。戦車、ミサイル、戦闘機、などを拡充し、海では、空母まで作ろうとする勢いである。その事に高慢になった中共軍部は、軍事的な冒険を犯そうとしている。現在の中共が、その様な国境線を逸脱し、仮に軍事的衝突となれば、日本国は急速に軍事大国化と帝国主義化に傾く事であろう。その様な事態が起きないように、中共の政治指導部は冒険主義的な対外政策の愚を改めるべきであろうし、近い将来いづれ中共は解体する運命であろう。資本主義的な独裁性など、存在の根拠を失う事柄であるから。