《大衆大学は、酷薄な言い方をすれば失業者プールでもありうるわけです。親からいえば、中学やハイスクールを出てぶらぶらしているくらいなら、大学へ入れて学歴をつけておけば景気が回復したときに社会的地位の上昇が期待できる。一方政府からいえば、親の負担で何百万人かの青年たちを大学に入れておけば、失業手当も払わず社会不安も興さずにすむ》(p.24)というあたりは、今の状況から考えると興味深い。日本を含む先進諸国は長期間にわたる景気回復が望めそうになく、親世代の可処分所得の減少も含めて「学歴による地位向上」というのは幻想になりつつあり、大衆大学はビルトインされた社会システムとして機能しなくなっているのなか、と。
個人的に納得的なのが、多くの患者が中学二年をもっともなつかしい時期と回想するということが繰り返し書かれていること。79年に書かれた「ある教育の帰結」では《人間の追求するものを満足satisfactionと安全保障感securityに分けたのは》サリヴァンであるとして、教育は死回避行動ではないかという議論とともに、サリヴァンが登場します。「精神科医からみた学校精神衛生」では《一人親友があるか、一人もいないかで、予後には重大な開きが生まれる》(p.79)というあたりもサリヴァンに引きつけて読まされました。「人格は対人関係の数だけある」のなら、自分の好きな自分の人格と出会うために、特定の人物と親しくなるんじゃないか、もっと下世話に言えば、特定の飲み屋にも行くんじゃないのかとか思っているもんで。サリヴァンの「対人関係事に人格がある」というのは、言葉を変えれば吉本隆明さんの関係の絶対性かもしれない、と個人的には思っています。中井先生をはじめとする日本人の精神分析医に米国よりサリヴァンが許容されるのは、これじゃないかな、と。マツクス・ウェーバーが父に対する家族裁判を主宰して、父を家出と死に追いやったことで重篤なうつ状態になったというのは知りませんでした(p.134)。