本著はキリスト教暦における本来「特殊的」経験であるはずの「ミレニアム」が全世界で共通した「普遍的」経験として認識され祝われるという現象を起歩として、この世界的経験が成立する根拠・過程を歴史的、宗教的、思想的、文明的視野から解き明かす。そして「世界史の臨界」を眼前にの「イスラム」、「クレオール」、「辺境」などのキーワードから「別の」世界性構築の可能性を探る。
目次は以下の通り
世界史の登録商標
歴史の終り?
「歴史」とはどういう装置か
「世界史」の発明
「ヨーロッパ」はいかにして自己を形成したか
世界史の臨界
別の「世界性」に向けて―イスラーム的現代
「歴史」とその亡霊―クレオールの語り
共産主義と無神論
歴史と内在―宮沢賢治の一〇〇年
フランシス・フクヤマの「歴史の終り」というテーゼについて語られる。これはソ連の崩壊、中国の資本主義化などを眼前にした資本主義の自由、民主という価値観の普遍性の「勝利」が謳ったものである。
労働者や女性、様々な社会的マイノリティーの権利伸張、社会福祉、植民地の権利独立を促したのは、他でもないこの「対案」の圧力のためであり、実際植民地の独立に強い抵抗を示したのは「人権」や「民主主義」を掲げる西洋諸国であった。そしてこの西洋諸国の抑圧に抗するがゆえに、多くの国々は「壁」の向こう側へと属したのである。
「それまでの自己批判や修正も忘れて、「市場経済と自由主義」という極めて曖昧なものを無原則に肯定し、転がり込んだ「正当性」の上にあぐらをかくことになる。」24頁
この転がり込んだ「正当性」を西洋資本主義という価値観の勝利という図式に短絡的に当てはめようとするものがヘーゲル主義者的「歴史の終り」テーゼであり、その強力なイデオロギー性であった。またなによりこれはホワイトハウスの声である。これが「世界新秩序」構築のために起こした数々の人道に対する犯罪は周知の通りだ。
また興味深いものが「世界史」という装置に関する考察である。なぜヨーロッパのみが「世界史」の主体でありえたのかという問いへ繋がる。ヨーロッパとは元々ゲルマン系の征服者がローマ・カトリック教会の「普遍的」イデオロギーの担い手、そして偉大なギリシャ文化の継承者として振舞うことで自己を確立した。
「<西ヨーロッパ>とは、文化としてもその担い手としても、度重なる移住と征服をとおしての、文明の重複と継承、錯綜と交錯の上に初めて形作られたもの」であり、「<西ヨーロッパ>はまさしく「歴史的」であり、またそれゆえにこそ『正統性』と『身分証明(アイデンティティ)』とを必要とし、他の文明に先駆け、みずからを主体として<世界史>を構想するにいたったのである。」109頁
「正統性」を持たぬからこそ、他者を鏡としてアイデンティティを求めるのである辺境に位置した日本は本来が自らの「正統性」を持たなかった。しかしそれだからこそ自らの「アイデンティティ」を死に物狂いで構築し、「世界」における「主体」の確立を求めての狂奔へと向かったといえる。
「世界史」とは「ヨーロッパ」の歴史的な自己伸張のシステムであった。我々は(「世界史」にとってのフロンティア無き)グローバリゼーションの時代において、まさに「世界史の臨界」を迎えている(この「世界」に「主体」として長らく君臨した「ヨーロッパ」は今EUという一つの具体的地域概念へと化した)。
この著作には「ヨーロッパ」への同化不可能性を孕む「イスラム」、「ヨーロッパ」という安定した「アイデンティティ」を蝕む「クレオール性」、東北から世界、そして宇宙へと視線を向け続けた宮沢賢治や、宮古島を例として辺境から直接的に世界へと繋がる新たな可能性としての「辺境性」など刺激的な論考が含まれている。
どれも個人が国民国家という大文字の「アイデンティティ」の枠組みへと絡め取られないための、有効な視座を提供している。これを踏まえることで(ジャン・リュック・ナンシー等の)新たな共同体概念構築の意義が理解できるような気がした。