ずっと「積ん読」状態で手つかずだった柄谷行人氏の「トランスクリティーク」(2001年)を氏の近著「世界史の構造」(2010年)を読んだ目で読み返しました。
この「トランスクリティーク」で深く掘り下げられたカントについての考察があって、はじめて「世界史の構造」(およびその抄論としての「世界共和国へ」)が成立し得たのだということに思い至りました。そしてこれらの著作を同時代にリアルタイムで読むことの意味を感じました。
今回「トランスクリティーク」を読んで、最も大事なポイントだと思ったことを今日ここに書きます。
それは「単独性」の視点についてです。
それは「類」に属するような「個」を置いたうえで、それらをつなぐ関係性を考察するというような思考に対する批判であり、次のような、ものの捉え方に対する批判としてあらわれる倫理のベクトルのようなものと言えます。
『この一枚の紙と言うとき、すべての紙、どの紙も一枚の紙なのである。私は相変わらずただ一般的なものを語っているだけである。(ヘーゲル「精神現象学」)』
「単独性」の視点とは、言語で定義しようとしてもその外部にこぼれ出てしまうような、あるいは、たとえ固有名をつけたとしても、そうした名称でつなぎとめることができないような、「或る一人の人物」であったり、「或る一匹の犬」であったりするもの、すなわち代替や再現が不可能なものを見据えた上で、それを大切に扱う視点です。
音楽に関係する者同士であれば、空を舞って瞬く間に消えてゆく自分の発した実音を大事に思う気持ちのようなものと言えば、わかっていただけるかもしれません。
こうした、ある意味でミクロな「単独性」の視点が、ひるがえって「普遍性」あるいは「他者」「外部」といった論理につながります。このような「単独性/普遍性」への視点が無ければ「すべての人の同意を要求する(カント)」ような普遍性を探求する精神も生じ得ないと思います。
今日ここに書いていることは、一年前(2011年3月11日)に起きた災害に結びつけたくないと感じています。
しかし同時に次のことが言えると思います。
「単独性」の視点が無ければ、亡くなられた方、傷ついた方、大切なものを喪失された方をいたわる心は持ち得ない。そして、まだこの世に生まれていない未来の人たち、あるいは大昔からこの地で生活を育んでこられた先人の方たちに対する「取り返しのつかないことをした」という気持ちは起こり得ないと。
柄谷氏が「トランスクリティーク」を執筆しはじめた90年代初頭から数えて20年以上の長きにわたる、倫理的要請に立脚した考察は、以下の一節に凝縮されていると思います。
『他者を「目的として扱う」とは、他者を自由な存在として扱うということであり、それは他者の尊厳、すなわち、代替しえない単独性を認めることである。自分が自由な存在であることが、他者を手段にしてしまうことであってはならない。すなわち、カントが普遍的な道徳法則として見出したのは、まさに自由の相互性(互酬性)なのである。』(「世界史の構造」345頁)