「世界史」を哲学するという恐るべき事業に挑んだ論集。戦後、著者初め、西田学派で公職追放になった者は、その後、日本のインテリの左傾化のため、言い掛かりに近い非難の中で忙殺されていった。時局に迎合した「右翼」「体制派」と言うことで、加藤周一が言うように「でたらめ」な文化論を展開し、若者を死地に追いやったというのが、大方の非難の筋だ。本書を読んでみると、またしても冷静さを欠いた非難だったことが分かる。ただ、本書冒頭に、「支那事変」を西欧中心主義が一時的なもので真の「世界史」が始まる端緒の事例であるような書き方があって、いかにも、後年左翼の集中砲火を浴びそうな話だとは思った。が、それも良く読んでみると、20世紀の初頭までの帝国主義時代では、日本以外のアジアは一方的な西欧の蹂躙にあっていたわけで、世界を思考するその発想が「西欧を思考する」事と同義にされていたことは事実で、それが日本の台頭で、確かに違ってきた、ということの意味合いであることがわかる。決して正当化しているわけではない。本書全体を通じて云えることは、何も、「日本主義」を唱えているわけではなく、あくまでも多元的な文化相対性のなかで、従来の西欧の社会理論や、歴史理論を批判的に検討している、ということだ。その知見は、西欧の古典哲学をものにし、しかも、19世紀〜20世紀の、ウェーバーを始めとした社会学、歴史哲学なども消化した上で、縦横に「自身の言葉」で論じる、「日本人の言葉」で語る思想になっている。戦前の哲学というと、西田、三木、戸坂、九鬼、和辻が多く語られ、せいぜい田辺ぐらいであるが、高坂正顕の「カント」や「哲学史」、そして高山の本書など、水準の高さには驚くものが多いことが分かる。戦後、京都学派は、いささか安易な「総合研究」に転じてしまったが、高山が最後の高水準だったと思う。個々の学説を咀嚼し自身の言葉で、ポイントを示し、批評を展開し、自身の思索を発展させる、その論述は、いまでも、参考になることは多いと思う。ただ、題材や視点が、今となっては、少し古く、「世界」をどこか「主体」として捉えている目線は、全体の論述が、すこし「おはなし」くさく思える。それを少し堪えて読むと、いろいろな意味で興味深い。