本書は2009年から2010年にかけて、「〈新・世界文学入門〉沼野教授と読む世界の日本、日本の世界」と題して毎回ゲストを呼んで行われた公開講座・対談の採録です。
ロシア文学の泰斗、沼野充義氏が、「世界文学」を念頭に、さまざまの角度から現在の文学を語ったもので、平野啓一'郎氏との対話では「オーラル文学の時代から、リテラシー文学の時代へ、そして電子文学の時代へ」ともいうべき視点がおもしろく、ネット上での多数の投稿により、批評というものの意味が変わったこと、純文学とエンターテイメントの境界もゆるやかになっていったことなど、改めて21世紀が大きな曲がり角になったことを確認させられました。またJブンガクのキャンベル氏との対話では、伝統的な日本文学のもっている本歌取りやパロディ、パスティーシュなどの傾向、『1Q84』(村上春樹)の世界文学への受容など、文化の接点的な見方が刺激的でした。
あとの対談者はリービ英雄、飯野友幸、そしてドストエフスキーの亀山郁夫、各氏との対談ですが、沼野教授の講座という面が強く、対談者に話題をふりながら、豪快にまとめてゆく手腕はさすがです。
しかしなんといっても心に響いたのは、あとがきで、震災後にどんな文学が可能かという問題提起をしているところ。
著者は、高橋源一郎の「恋する原発」(わたしは未読)をあげて、震災後にもまったく書くものが変わっていない作家と言い、「真面目な文学をポルノまがいのパロディに解体していく方法が、震災以前は保守的な文学観の持ち主から「顰蹙」を買う程度のものであったのに対して、震災後に同じことをやればはるかに衝撃的な意味を持ち得る。これはどうしてなのだろうか?」と新しい問いをみずからに突きつけています。
そして、以前には文学として特に評価できなかった、チェルノブイリ原発事故を扱ったヴォルフの小説が、突然「まったく別の本を読んでいるように」感じたといいます。
著者はこうした体験から、世界文学とは「読まれ方」(モード)の問題なのか、とも前書きで述べています。すでにカノンがなくなった世界において、どんな文学も〈読みのモード〉で語られるべきかもしれない。
あちこちを心地よくゆすぶられることの多い一冊。沼野氏と対談者が毎回それぞれ三冊ずつあげる推薦書リストもふくめて、広いパースペクティブを得ることができます。