内容(「BOOK」データベースより)
不登校は「病理・逸脱」だ、いや「選択」の問題だ―これらはどれも“当事者”の本音ではなかった。不登校がその後の人生に与えた影響まで含めて、その体験の全体を“当事者”の語りを通して明らかにする。
内容(「MARC」データベースより)
不登校は「病理・逸脱」だ、いや「選択」の問題だ-。これらはどれも「当事者」の本音ではなかった。不登校がその後の人生に与えた影響まで含めて、その体験全体を「当事者」の語りを通して明らかにする。
出版社からのコメント
◆〈当事者〉にとっての不登校とは?◆ 不登校(登校拒否)は主に二つの物語によって語られてきました。子供は学校に行くべきであり、不登校は「病理・逸脱」であるとするものと、学校に行く行かないは自分で「選択」できるというものです。長い不登校の後復学して、現在大学院で社会学を専攻する著者は、不登校をめぐるこの「病理・逸脱」と「選択」の物語になじめず、同じ不登校を経験した人たちへのインタビューを通して、これらのわかりやすい物語から漏れ落ちてしまう「ノイズ」を丹念に拾い集めて、〈当事者〉にとって不登校とは何だったのか、そして現在何であるのか、を言語化します。〈当事者学〉の新しい展開を示す力作です。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
貴戸 理恵
1978年、福岡県生まれ。2001年、慶応義塾大学総合政策学部卒。2004年、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。現在、同大学院博士課程在籍(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1978年、福岡県生まれ。2001年、慶応義塾大学総合政策学部卒。2004年、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。現在、同大学院博士課程在籍(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
抜粋
私はここで「不登校は厳しく批判されるべきではないが、積極的の肯定し賛美するようなものでもない」というような、「否定」派・「肯定」派からともに距離をとった「中道の」―「中立の」―立場から発言しようとしているのではない。以下で私が試みたいのは、〈当事者〉の代表=代弁(representation)とは異なる「〈当事者〉による、〈当事者〉の語り」としての、新たなテクストの生成である。そこにおける問いは、「不登校とは何か」「不登校問題を解決するにはどうすればよいか」というものではなく、「不登校者にとって不登校とは何か」というものとなるだろう。「不登校者にとっての不登校」を問うことは、すなわち、これまでの不登校論が「誰による、誰にとっての」ものであったかを問い、不登校について語ってきたさまざまな行為者たちを、この問題をめぐる相互関係の位置性(postionality)において浮かび上がらせることでもある。…中略…
「心の問題」から「進ろの問題」へ。このことは、不登校の「肯定」が、「学校に行けない苦しみ」からの〈当事者〉の解放や、「子育ての落伍者」としての〈親〉のアイデンティティの回復に加えて、不登校後のライフコースや生活環境など「その後の生き方」を含めて「肯定」する必要として迫ってくる状況の到来を意味している。このニーズがより切実であるのは、〈親〉よりも〈「居場所」関係者〉よりも、まず〈当事者〉にとってであろう。 「かつての不登校経験は。その後の生活のなかで、いったいどんな意味を持っているのか?」それを〈当事者〉がみずから問い、語る必然性が、生まれ始めているのだ。(「はじめに」より)
「心の問題」から「進ろの問題」へ。このことは、不登校の「肯定」が、「学校に行けない苦しみ」からの〈当事者〉の解放や、「子育ての落伍者」としての〈親〉のアイデンティティの回復に加えて、不登校後のライフコースや生活環境など「その後の生き方」を含めて「肯定」する必要として迫ってくる状況の到来を意味している。このニーズがより切実であるのは、〈親〉よりも〈「居場所」関係者〉よりも、まず〈当事者〉にとってであろう。 「かつての不登校経験は。その後の生活のなかで、いったいどんな意味を持っているのか?」それを〈当事者〉がみずから問い、語る必然性が、生まれ始めているのだ。(「はじめに」より)