社会統計に基づいて、日本の階層を分析した本。日本は社会階層という観点から見たら、どういう社会なのか。階層別に分かれた社会なのか。階層に縛られ、「努力してもしかたない」社会なのか。誰もがそれをどこかで分かっていながら、「努力すれば何とかなる」と考えてやってきた。それが「一億総中流」としての戦後日本だった。
著者はSSM調査という社会調査を用いて、総中流の成立、またその成立の陰で見えにくくなっていた階層差を探る。統計学上の細かな論点は、末尾の解説に回されている。また、階層の流動化ぐあいを見るための様々な統計的指標−−オッズ比、ファイ係数などーーについても、その読み方がきちんと語られている。このような統計に接する際のポイントも学ぶことができよう。
さて著者の結論は、W雇上という分類名の「ホワイトカラー専門職・管理職」が閉鎖的になっている、というものだ。この層は収入も社会的名声も相対的に高い。実は、W雇上の再生産、つまり父親がW雇上で子供もW雇上という割合はそんなに変化していない。また、W雇上の他の層との格差もしかり。問題は、他の層からW雇上への流入が減っていることだ。つまり、「努力すれば何とかなって」W雇上になれる可能性、流動性が減っているということが問題とされている。
こうして再生産されるW雇上の層。彼らは生まれたスタートラインからして、W雇上になる可能性が高い。そして同様にW雇上の層の子供たちと一緒に育ち、他の世界を知らない。W雇上が閉鎖的になるにつれ、自分がW雇上であることの自負すら持たなくなる。かくして、「庶民のことが分からない」無責任な知的エリートが増えていく。これが著者の読みだ。
この日本の階層状況に対して、著者は少しの希望を素描している。それは、カリスマ美容師に象徴される。ブルーカラー労働者がその技能でもって独り立ちしていく様である。だがこれは素描に過ぎないし、本書の範囲では語り切れていない。
本書が描いているのは、ある意味では当たり前の風景だ。サラリーマンの子供はサラリーマンになりやすいし、職人の子供は職人になりやすい。地方の農家から立身出世するストーリーは昔こそすれ、現代では少ない。こういった、ある意味では当たり前の風景を、本書は統計に基づき、きちんとした議論で提示する。もちろん、SSM調査が主に使われる統計であり、一面的な議論という側面もある。だが、徐々に日本でも階層格差が気付かれてきた。そのことにある一定の議論を与えた本書は、価値が大きいだろう。実際、ここで著者が指摘・予想したことは、その後いくつも実現している。本書が描いている日本の社会像を、受け止めるべきは我々である。