リスボンにある繊維問屋の帳簿係補佐ベルナルド・ソアレスが書いた断章の集積という体裁を採っていますが、仮にフェルナンド・ペソア自身による断章と言ったとしても、この作品を考える際の障害とはならないでしょう。
余りにもつかみどころのない生のために、精神に常に不安が沸きあがってくるなか、ソアレスは原稿用紙だけでなくあらゆる紙に言葉を書き付けていきます。繊維問屋の事務所で、アパートの小さな一室で、時には酒場やカフェで。書くという行為によって何か確かなものを捕らえようとするかのようにも見えますが、不安に囚われた精神は、書いたすぐからリスボンの街を彷徨う身体から離れて、世界へと漂い出ていきます。
六百ページを超える断章の集積を読み続けていく間には、時折苦痛に捉えられることがあるかもしれません。しかし、不安に囚われたソアレスの断章には、空から或いは精神が漂う世界から光が差し込んでくる瞬間が時折訪れます。ソアレスの精神を捉えているのは「絶望」ではなくあくまでも「不安」であり、精神が彷徨うことは彼にとって生そのものなのでしょう。幾つかの言葉が心に残ります。「深い憂鬱、倦怠に満ちた悲しみは、安楽や落ち着いた贅沢をそなえた環境なしには存在しえない」、「しかし結局、金箔師通り(ソアレスの職場とアパートがある通り)にも世界があるのだ」、「この下町を見下ろす五階からでも、無限を考えることができる」。
イタリアの作家アントニオ・タブッキは、『不安の書』におけるリスボンは、「カフカのプラハ、ジョイスのダブリン、ボルヘスのブエノス・アイレスのようなもの」であると語ったそうです。しかし個人的には、シャルル・ボードレールとパリの関係に近いような印象を受けます。『不安の書』と『巴里の憂鬱』では表面の肌触りこそ異なるものの、その内に不安や倦怠を数少ない言葉で現出させる詩人でこその営みが感じられるからでしょうか。