早川書房の「想像力の文学」第3回配本。毎回超絶的な技巧を繰り出して魅せる佐藤氏だが、今作ではまた、これまでとは少しく違ったアプローチをみせている。物語の幕開けは地球のドコカ。農耕と共に至極平静に暮らす村の景色。果たしてそれがドコなのか、同様にイツなのかということはワカラナイ。平穏ではあるがそれ即ちコレといったことがナニもない、ということがイヤというほど伝わってくるその暮らしの只中へ、しかしある日銃を持った兵士たちが現れその人々をドコカへと駆り立てていく。暴力という名の理不尽のもと、各地から同様にして駆り立てられ集められた無数の人々が一切の説明もなく歩かされ歩かされ、やがては巨大な宇宙船様の物体に詰め込まれ、ダレガイッタイナンノタメニ?という一切の説明なしに宇宙(と思しき)空間へと連れ去られ、やがて航行ののちに送り届けられた地へと入植させられていく。地球上ではないドコカの別の星へと入植させられる、、、というところだけ見ればSFっぽくもあるのだが、全体としては俗にいうSF的なニュアンスは全く感じられない。なんとも形容しがたいのだが、描かれているのは地球上のソレとなんら変わることのない人々の営みであり行為である。その地でもやはり人々は生きるために生き、死ぬべくして死んでゆき、畑を耕すものあれば盗みをはたらく者もあり、力の強き者あるいは偶々幸運の尻馬に乗った者がそうでない者たちを支配していく。しかしながら、名も無き群集の、それぞれにおいては「意志」とも呼べぬような代物が集積して「全体」を動かしていく、という得体の知れなさが浮きだっていた『妻の帝国』とはまた本作のニュアンスは違う。巻頭帯で書かれた"船は下りゆく、人は下りゆく、先の見えない未来へと・・・・・・"というフレーズが喚起する一種の無常観めいた感覚もありつつ、だけどそれだけかと言われるとやはりそうではない。
つまるところ、おこなわれていることはすべてが人間の営みであり、いかに時が流れても何一つ変わってはいなかった。
こんなフレーズが作中現れるが、自分は最初、これこそがこの作品の主題なのかと思い読んでいた。まるでコピペのような反復描写を散りばめながら、ひたすらそこで行われる「行為」の集積を描いていくかのような中盤にかけての展開は、そこに何らかの「意味づけ」をするという次元を超えた、より大きな「全体像」を描き出す、例えば形態こそ多少違うが光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』のような世界をイメージしていた。なんだけども、ある固有の名詞を持った人物が「物語」の多くに現れ始める中盤以降では、紙面には佐藤作品に特有の「不条理」やそれを裏付ける暴力という装置の不穏な存在感が俄かに増してくる。なので個人的にはその中盤を境に、かなり違った表情を持つモノに二分されて感じられた。大変好きな作家である佐藤作品の中でも、かなり好みの部類に入る小説だった。あえて欲を言うならば、漠然と、しかし確実に流れ続ける川の流れを繁栄したかのような人々の営みが連綿と綴られそこからナニかを感じ取らせる、そんな中盤部までの流れを突き詰めて欲しかったなぁという思いが、あるにはあるけれども。