河瀬直美と言う監督は、「萌の朱雀」の時から物議を醸し続けてきた。
そこでの撮影に関する出来事は前夫でプロデューサーでもある仙頭武則氏の著書に詳しいが、ざっくりまとめると
「劇映画を撮る上で必要な資質の問題」
である。
スタッフのとの意思疎通で揉め、「朱雀」出演者でただ一人のプロの俳優であった國村隼氏の仲介に助けられたと言う。
スタッフの問題はその後、自分でスタッフを選ぶ事によって解消可能となっていくのだが、俳優のディレクションと言う重要な(と言うよりは劇映画を監督するなら必須の)能力については本作に於いても依然疑問符を付けざるを得ない。
カンヌ受賞した「殯の森」にしてもそうだったのだが、殆どのキャストを素人でまかなう手法は本来非常に有効な手段である。(河瀬作品ではプロが全く出ていない訳ではないが)
但しそれは、キャストの持つ「プロの俳優には決して出す事の出来ない瑞々しさ」を引き出せる事が条件となる。
では河瀬監督の場合はどうか。
残念ながらそれが出来ているとは到底言い難いレベルであった。
そして今回はプロの有名女優を起用しての劇映画。
手法は台本無しで一日の行動を支持した紙だけを渡すと言うもの。
つまりはある種の「フェイク・ドキュメンタリー」と考える事も出来るのだが、それにしては長谷川京子が未知の状況に放り出された時の感覚を捉えられているかと言えば、そうではない。また職業女優としての長谷川京子のスキルも監督を良い意味で裏切れるレベルまで達していない為、全体が想定内の範囲で収まってしまい映画が本来持ちうるダイナミズムの欠片も存在しない。
これだったらきっちりシナリオを書いて撮影した方が少なくとも筋立てはハッキリする。
ここで前述の
「俳優のディレクション」
を河瀬監督はまだ不得意としているのではないかと言う疑問が生ずるのだ。
彼女の場合
「最初からそのような狙いは無い」
「劇映画とは思っていない」
と言ってしまう可能性もあるのだが。
だったらこれまでの様にプロを使わないでこの手法をとれば、撮る側の予想の及ばない感情や動きや言葉が産まれてくる可能性が高かったのではないのか。
「筋書きのないドラマ」
と言う意味でも、映像作品と言う意味でも、はっきり言って「水曜どうでしょう」の方が遥かに優秀である。
河瀬作品のファンは多いし、私自身も監督の出身学校の後輩でもあり、批判的コメントは心苦しい。
しかし映画を愛する者として、この作品はどうしても看過出来なかった。
私は「本作は映画ではない」等と言う傲慢な言葉を使うつもりはない。(以前河瀬監督はある映画をこの様に評した)
だが、その批判された映画の出演者(恐らくこの批評を最後まで読んでくれる方なら絶対ご存知の名優である)のこれに対するコメントを引用して、本作に対する私の総評としたい。
「映画って何ですか?」