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著者は自ら、藍建てをし、糸を藍色に染め上げ、そしてそれを織りあげる工芸作家です。化学染料を使うのではなく、植物染料を利用し、いかに美しい色を出すか。そのことに真剣に取り組み、そのために一生を費やすのも辞さない。その姿勢で染め上げた糸を使い、織物を作るというのです。
本書に見出されるのは、「藍を手がけることによって、植物が単なる色だけでないことを知り、植物の側のいい分、言葉にならない言葉や形態から何かをさぐろうとし、植物の言葉や様子をわかる耳や目を持ちたい」(19頁)という著者の姿勢です。自然を人間の背丈に合わせるのではなくて、自然へできるだけ歩み寄ろうとする姿勢が、本文中いたるところで感じられます。彼女からすれば、世界や自然をじっくり見据え、自然からの恩恵を「戴く」技こそが「ものづくり」なのでしょう。
本文中に、工芸の仕事はひたすら「運・根・鈍」につきるのではと心情を吐露する箇所があります。「運」とは自分にはこれしかない、不器用で我が儘な自分はこれしかできないのだと思いこむようなもの。「根」とは、粘り強く一つのことを繰り返し繰り返しやること。そして「鈍」とは、工芸という表現自体が、絵や文章のように、じかの思いをぶちまけるわけにいかない「鈍」な仕事なのだということ。
世相に煩わされるのでない生き方・態度、時代に翻弄されない一つの姿勢として、志村さんのような姿勢があると感じます。
職人でなく芸術家と自らを定義する著者の、染め・織への業の深さが感じられる。
母から離れて凝らした子供時代、離婚後母と住み、機を通して母との絆の再確認をした話はあるが、離婚した夫・子供は全く登場せず、それはそれらの人への配慮なのかもしれないが、心が痛い。
染めを通じて関わる植物への深い思いとひき比べて、染めとも芸術とも関わりのない人の切り捨て。
2才のとき養女に出された悲しみを離婚後も抱えていたのに、自分の子供たちを養父母に預けて自らは機に向かった、という。
もちろん様々の事情はあるに違いないが。
自分と同じ寂しさを子供の強制する激しさ。
これが芸術家というものか、と思う。
一方、染めを通して関わる植物への深い理解、心の寄せ方には涙が滲む。
桜の幹は花咲く前には桜色を染め、花びらは淡い緑色を染める話。
切り倒された100歳の榛の木が血に見まごう色のおがくずを切り株のまわりに散らしていた景色。
著者の作品は群馬県立近代美術館で年に1~2度公開されるそうだ。是非見に行きたい。
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