この本はルソーやフロイトによる歴史的思想とネット社会が、現代の議会制(代議制)民主主義の世界的行き詰まりに対し、いかに関連し応用されるのかを論じた意欲的考察として話題になっており、書評も多くご覧のようにamazonにも既に多くの方が様々なレビューを書かれています。
しかしながら、実際に本書を読んでみると、一つの典型的意見と思われる池田信夫氏の「民主主義の過剰 - 『一般意志2.0』」などの見方は全く違うのではないかと思わざるを得ません。
そもそもタイトルに『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』とありますが、著者東浩紀氏自身の思想の核はむしろヘーゲルにあるのではないかと思われます。すなわち、第八章の考察、端的には本書139頁に示されている図こそが著者の本質的な思想であり、思想とは常に統合的なものであることを考えれば、一般意志2.0の概念は、「国家と社会のヘーゲル的関係」にデータベースによる無意識の可視化を組み込んだ「国家と社会とデータベースの新たな関係」に内包されるために、重要ではあるが全体から見れば部分に過ぎないということになります。
また、このような概念は著者の初期の論考で提示された複数の超越論性や『動物化するポストモダン』におけるデータベース理論などの社会的発展と見ることもでき、東浩紀の一貫した思想の方向性ではないかと私は思います。
以上のような著者の思想を前提に、本書で述べられている新たな政治のあり方を簡単にまとめると、従来通りの選良、すなわち官僚や代議士による熟議と、それらを完全に公開することで得られるデータベース化され解析されたニコ生的なコメントが拍手やヤジ的に熟議に影響を及ぼすというような、間接と直接の二重の民主主義を目指しているのであり、「「国家権力の問題を無視しているため、そこで描かれるユートピアは、国民が国会審議を見てツイッターやニコ生でコメントする、といった漫画的なものでしかない」というような読み方は、明らかに論考の半分を無視していると言えるでしょう。このことは本書でも繰り返し強調されておりますし、著者のツイッターでも述べられています。
しかし、それって本当に新しいことなのでしょうか?
「圧倒的に不毛だったが、ネットがマスコミみたいになっていることはよくわかった。問題の根幹を無視して、感情論ばかり。」
これは最近の著者hazumaのツイッターからの引用ですが、私は全くその通りではないかと思います。まさにネットがSNSの普及などで一般化すればするほど、どんどん既存のマスコミに近くなってきております。
そうだとすれば、いくらネットとデータベース技術が発達したところで、人民の無意識、すなわち一般意志2.0なるものは、結局のところ今のマスコミがこんなもんだろうと想定して生み出している大衆の欲望と何ら変わりはないのではないでしょうか?そして、今の政治がマスコミが提示した大衆の欲望にかなりの程度影響を受けながら動かされているのは明らかです。
つまり、震災後(震災とは何の関係もないと思うが)にはできなくなった夢を語るってことを僕にやらせてくれないか、などと言いつつ、あたかも素晴らしい理想を語るがごとき示された本書の来るべき政治のあり方は、実のところ今のマスコミと政治家が繰り返すマッチポンプ的現状と本質的には変わりないものと考えられます。
確かに、大衆の生の声を高度に分析すればそれなりに今より正確な「人民の無意識」が可視化されるでしょう。しかし、それはせいぜい、「多くの人は韓国がそんなに好きじゃない」とかその程度のことだと思われます。
本書は長年、政治バラエティ番組の司会を務められた田原総一郎氏に好評だったようですが、彼のような立場の人だったら本書の主張は実に都合のいいものとして受け入れられるでしょう。彼のそれまでの仕事を正当化してくれるからです。
東浩紀という人は、これまで新しい試みと称して様々なことをやってきましたが、テレビのバラエティ番組の真似事みたいなことが多かったと思います。津田大介氏のようなネットタレントを引き連れて被災地を取材したりなどもそういうことだと思います。
パッケージを変えただけのオルタナティブ、それをあたかも革命的事態に見せる手腕こそが著者の本領と言ってもいいかもしれません。