平均的日本人が「ヴィシー政権」を感じるときは、映画「カサブランカ」でドイツ支配下のフランス人の姿を見るときだけかも知れない。しかし、昭和20年8月以降の「占領下の日本」も、まさしく「ヴィシー政権」と同様の打ちのめされた状態にあったのだ。
「ヴィシー政権」について、戦後、一般的には、R.アロンの「ナチスの絶対的命令に対しフランスの盾になった」「連合国との間に秘密の連携があり、1944年にはレジスタンスとして開花した」と宣伝されることが多かった。これは、まさしく「戦勝国フランス」の傷つけられたプライドを回復させるものであり、1960年代には、ドゴールとフランス共産党がこぞって主張したものである。
しかし、著者は、「ヴィシー政権」に対する評価を根底から覆す新説を提示し、フランスの研究者からは激しい反発をかった。学説史的には、著者の名をとって「パクストン革命」と呼ばれたものである。
著者によれば、ペタン元帥は「ドイツに対して、積極的な協力と、フランスの「国民革命」を申し出て、ヒトラーやナチス幹部たちから軽蔑された」「4万人のドイツ軍が4500万人のフランスを支配するには、ドイツの指示に積極的に迎合し、従順に従う沢山のフランス人や行政組織なしには不可能だった」「ヴィシー政権は、独自にユダヤ人迫害を行った」「ヴィシーと連合国の間に秘密の連携などなかった」「レジスタンス神話は、1944年に、ドゴールと共産党が作りだしたものである」等である。
これらの論点に、フランス人は不快感を隠しようもない。
しかし、レジスタンスが神話でしかなかったことは、当の活動家からも厳しい自己批判がある。ユダヤ系歴史家マルク・ブロックのようにナチスに殺された者もいたが「たった1000人に一人。それが、フランスが示したレジスタンスなのだ」。そういう自嘲の声があることも事実である。
人間は、強い存在にも弱い存在にもなり得る。ペタン元帥に比べて吉田茂はどうだったのか。或いは、アデナウワーは。二人は「冷戦の開始」という米ソの対立を千載一遇のチャンスとしてどう生かしたのか。「占領国」と「被占領国」との関係に抽象化して見直せば、「ヴィシー政権」の全体像は、決して人ごとではない。