ワーグナーの曾孫による講演録・論文を集めた小冊子。全100ページ足らずで、題名から期待される読み応えは、従って今一つ。ページ数の制限のせいか著者の主張が一方的に述べられるだけで、読む側を納得させるに足る十分な資料吟味(資料の羅列ではなく)や論理展開、言わば客観性にはやや欠けるうらみがあるように思う。また、論ぜられる問題についてある程度の予備知識を必要とする他に、読者それぞれが何らかの態度を決めた上で読み進めないと論旨が十分には呑み込めないということもあろうかと。一言で言って半可通以上の読者向け(評者は半可通の部類)。
では一体何の本なのかというと、その作品や著書で反ユダヤ主義を思想化または理想化し、やがてはヒトラー・ナチズムの温床的存在となったワーグナーと、嘗てはナチスの御用劇場として栄華を極め、戦後はあっさり口を拭って過去を封印、芸術の美名の下さらに貪欲に世界規模のビジネス展開を進めるバイロイト祝祭劇場の面々、つまりは著者自身の家族への徹底的な告発である。
大して見返りもありはしないというのに、一族に連なる身でかくなる批判をあえてするこのアクの強い反骨精神、和を尊び親には孝を以てする日本人としてはいささか閉口の感なきにしもあらずだが、著者自身による半生記『
ヴァーグナー家の黄昏』(1998年/平凡社刊)には、幼少時代に感じた先祖と家族に対する疑問と葛藤、長ずるによって生じた義憤と罪悪感、責任感といった感情が生々しく綴られ、本書同様やや自己陶酔的ポーズが感じられないでもないものの、本書の物足りなさを補って余りある迫力と説得力がある。
ただ、立場上無理もないかもとは思いつつ、両著において、身内や同国人に対し時にあまりに攻撃的に過ぎると感じられる著者の口調にはやはり辟易することも。日本の所謂自虐史観論者を連想する。戦後世代による旧世代批判。自らは安全地帯にあるだけに攻撃は容易く、また冷酷で無責任なものになりかねない。特に著者の半ば偏執的なほどの仮借ない糾弾ぶりは、嘗てナチズム一色に染まって留まるところを知らないまま突き進み、挙句の果てに破局を迎えたゲルマンの民族性丸出しなのではないか。やはりドイツ人のヨアヒム・ケーラーによる『
ワーグナーのヒトラー―「ユダヤ」にとり憑かれた預言者と執行者』にも同様のファナティシズムを感じただけに、複雑な思いに捉われる。
そう言えば、両著で著者がことあるごとに強調し批判する「ドイツ人のメンタリティの特徴―公的生活と私的生活に分裂した心情」(本書p.6)、日本風に言うと本音と建前の使い分けだが、常日頃から日本人の良くないところと指弾されるこの傾向、ドイツ人にもそういうのがあるんだなあと妙なところで感心した。森達也がベルリンでの『
A 』上映会で
老婆に「ドイツ人も同じよ」と話しかけられたエピソードを思い出す。