ひと口にワークショップといっても、アート系、まちづくり系、自然・環境系などさまざまな分野で行われている。それらを丁寧に解説するとともに、著者が体験したり、企画したワークショップの事例を紹介する。著者が最も影響を受けたのは、アメリカのジョアンナ・メイシーのワークショップだった。湾岸戦争をアメリカで迎え、困惑しながら「戦争を止めるために、私たちになにができるでしょうか?」とメイシーに問いかけたとき、「その質問こそが出発点です。孤立せず、集いあって、問いあうことが力です」と返した彼女の答えが、著者にとってのワークショップの原点だったという。メイシーの言葉にワークショップの本質をみる思いがする。
また、ワークショップという場は、小さいころ、心ゆくまで遊んだ「遊び場」や「広場」にあたるものかもしれないという著者のたとえには、思わずうなずかせるものがある。ワークショップを単にマニュアル的に解説するのではなく、その本質にも触れさせてくれる好著といえる。(清水英孝)
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しかし、やや「いれこみ過ぎ」のようでもあり、不安も感じさせる。ワークショップを学術的に分析しているというより、当事者の熱心なアドボカシーに近いのではないか。著者はもと宗教学が専門で、広告代理店に勤務後にアメリカで「組織開発・変革」を学び、現在も「ワークショップ企画プロデューサー」として活動中と紹介されている。
確かに著者は、「アブナイ」カルトに近似する危険を指摘したり、ワークショップ依存症になることなどを戒めてもいる。しかし、私の不安はそれだけではない。自分の経験から、ワークショップにはやはり集団圧力のような作用があり、自分がどこか置き去りにされている面があると感じる。私自身は、人と話すなら一対一、せいぜい3人くらいまでのグループが一番気持ちよいというタイプだ。
ワークショップはアメリカで発展したようだが、その発祥の地の社会にはしっかりとした《個人》がある。あるいはキリスト教などの信仰がオーソドックスなものとしてある。少しくらいの集団行動では翻弄されないし、それに依存しもしない。率直な意見も自然に出せる。この基礎の違いは、ワークショップを考える上で見逃せないのではないだろうか。
社会を堅実に、着実に変えようとするとき、真摯な言説の積み重ねも大事だと思う。それは時に学術という形も取る。そういった作業は、個人の思索や小人数の議論によるのであり、団体行動の中で生まれるものではないだろう。
ワークショップは効果的だし、今後の社会に重要だとも思うが、もう一方の「個人の確立」を考えないと不十分なのではないだろうか。
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