この巻の主人公と言ってもいいユリアヌスを題材に、
辻邦生が『背教者ユリアヌス』を書いたことは知っていたが、
これほどまでに数奇な運命を生きた人物だとは知らなかった。
キリスト教を公認した大帝コンスタンティヌスの死後、
未だ幼少だったユリアヌスはかろうじて粛清を免れ、
小アジアの一角に幽閉されたまま育てられるが、
このまま進めば何かのはずみで殺されないまでも、
よくてギリシアの学芸を愛好する無力な知識人としての
そこそこ平穏な余生が待っているだけだったろう。
その後、副帝(カエサル)に起用されることになるのも、
その時点ですでに皇統に連なる人間が絶えていたからに過ぎないが、
ガリアの防衛をまかされるや、瞬く間に目覚ましい成果を挙げて人心を掌握し、
数年後に正帝(アウグストゥス)に推戴されて東方への進軍を開始すると、
対決を前にしてコンスタンティウスはあっさり病死、
ユリアヌスが帝国全土の唯一の皇帝となってしまうのだから、
まったく人間の運命というのはわからない。
「背教者」として物議を醸した統治期間は一年半に過ぎず
最後は宿敵ペルシアへの遠征に向かったユリアヌスだが、
大河ティグリスとユーフラテスに大船団を浮かべて
敵の首都クテシフォンの門前にまで迫るものの、
別働隊が予定通り到着しなかったため勝ち切れず、
やむなく船と兵糧を焼いて撤退、その途上であえなく戦死する。
この場面は、歴史の本質が壮大な徒労であり蕩尽に過ぎないことを感じさせ、
個人的には全篇中の白眉ではないかとすら思うが、
遥かにクテシフォンの城壁を照らし出す炎の中で
異教のローマの命運もここでいったんは尽きたかのようだ。
かつては一哲学徒に過ぎなかったユリアヌスが
運命に導かれるように激しく行動し、あたかも異教の神々に殉ずるようにして
死んで行かざるを得なかったところに、いっそうの悲劇性が感じられる。