開高健がデビューした時には、同時期にデビューした大江健三郎と比較された。
ちょうどカミュとサルトルのように。
私は開高はカミュ、大江はサルトルだと思っている。
大江はノーベル文学賞を受賞したが、文学的には常に実験作を作り続け、将来その作品は一部の作品を除くと未完成と評価されるのではないか。
一方の開高は早く亡くなり作品も多くないが、その作品は一字一句彫琢され、完璧なものである。
しかし、読み手が書き手と物語を作り上げていく作業が必要なために、ゆっくり繰り返し読まなければならないため、なかなか評価されない。
近代以降の文学者の中でそのような性格を持っていたのは、有島武郎と太宰治だけである。
若い頃太宰治を好きだった人は年を取ってから開高を好きになると思う。
言葉も一字一句選れびぬかれている。書き飛ばしているように見える太宰治も実は言葉にこだわった人だ。
時代背景がわからなければ意味がないとか、中身が無いのではないかという人は、フェルメールの絵を見て、針仕事やミルクを汲む仕事などという題材自体がつまらないと言っているのと同じである。
何が書かれているかではなく、どう書かれているかが大事。
太宰治と同じように、開高は読者の耳元でささやいているのだ。生きていることだけでも感動があるのだと。
この短編集はそんな開高の最も良い部分だけを抽出した作品だけを集めている。