「本を書くときのボクはウチダというキャラ」と語る内田樹は、江戸戯作者から大宰・安吾という路線に通ずる精神を共有しているとみてよいが、敬愛する同タイプの伊藤整が誤解され続けてきたのと同様、内田樹の論旨も誤解されやすい要素を持っている。それが「真面目」になった分だけストレートに表出されているために、わかりやすいレヴィナス論、というより、内田樹論、となっているように感じた。
いちおうレヴィナスについて内田の理解を書いておくと、フッサールの現象学的視点を書物と愛(するひと)という対象に投影したのがレヴィナスだった、というものだが、レヴィナスにまったく興味のなかった評者でも、これはなるほど、と眼を開かされた論点であった。本書での内田は師を崇めるレヴィナスを徹底的に擁護しているが、その擁護なくしては豊かな意味を汲み取ることができない、ということを、本書の存在によって説得力を持って示している。それが本書の一番の存在理由であり、われわれは信奉する本や師に対してこのような態度で臨むことが大切である、という内田の主張は十分に納得できるし、またそうありたいと思う。もちろん批判的精神は大切だが、万人から批判を受けずに受け入れられているものには批判的な眼を、そしてレヴィナスのように、著者が予期可能であったであろうあまりにも定型的な批判を受けているものに対しては、肯定的な読みを考える、というのは、読書におけるひとつの基本的な姿勢ではないのだろうか。