はじめて読んだ著者の作品は、創元社から刊行されている「鳥−デュ・モーリア傑作集−」という短編集なのだが、これを読んで、この作家の魅力は、(余計なことを)書かないあるいは説明しないことによって例えば表題作“鳥”であれば恐怖感を読者に増幅させるところにあると感じていた。一言でいえば語らない魅力ということなのだが、この“新訳版”で初めて読んだ「レベッカ」に違和感を持った。
主人公の「わたし」をはじめ登場人物が皆饒舌で感情的なのだ。そして書き手(=翻訳者)も。
作品中には登場しない影のようなレベッカ、語り手でもあり主人公でもあるはずなのに名前が出てこない「わたし」、著者デュ・モーリアの狙いが“饒舌な”登場人物達に多くを語らせることによって物語を展開させるということにあったとは思えない。また、そういった主人公達にそういう凝った趣向を凝らしているにもかかわらず、不思議なことに読後感は、構成や展開の巧さを除いて考えれば2時間ドラマを見たような気がするという不思議な感想となってしまった。
しかし、それも良く考えてみると、随分と昔に書かれたこの作品が現代のサスペンス作品としても通用するおもしろさを持っているという証明だ。ただ、それは薄っぺらいという証明でもある。
構成も素晴らしい、ストーリーとしても現代に通用するものがあるこの名作と呼ばれる作品に何故そういう感想をもってしまうのか?時代を無視したかのように現代人に読まれるということだけを前提とした翻訳だけで、ここまでの違和感は持たなかったはずだがと思いつつ、翻訳者あとがきと解説を読んだところ・・・
翻訳者はあとがきで“訳しているときは主人公の「わたし」と完全に一体化していたといっても過言ではない”ということを記している。そして、解説の恩田陸は、“かつての重厚な「ゴシックロマン」そのままのイメージだった『レベッカ』が今回新訳になったことで、この小説の読みどころが「わたし」の愛と成熟になったことは間違いないだろう”と記している。
この新訳に対して、ゴシックロマンの重厚さをぶち壊しにしているという意見がある。確かにこの新訳に“重厚さ”はない。良くも悪くも現代人を意識し“読みやすさ”を主眼に置いた結果なのだと思う。それがまた中途半端で成功しているとは言い難いが試み自体は否定しない。
でも、作品の読みどころまで変えてしまうのはどうなんだろう。それって、翻訳者の越権行為じゃないのか・・・。