著者のレヴェリアン氏は、ルワンダの虐殺に巻き込まれ、若くして血縁者を虐殺され、自身も心身に多大な痛手を負う。
この本の前半は、ルワンダで起きた紛争の、目を覆うばかりの惨状が詳しく描かれていて衝撃的だ。後半にいくと、スイスに亡命した著者が、自分自身の精神的外傷に向き合うという、やや内面的なテーマに重点が置かれている。
前半もさることながら、この後半が大変読みごたえがあった。
スイスで自分の養父となった男性に、崇拝に近いほどの敬意を示すレヴェリアンだが、養父の「キリスト教の教えに従って敵を許せ」という言葉に、彼は反発と反論を繰り返す。
「百歩ゆずって、相手が謝るなら許す事も考えなくもない、だが謝りもしていない相手を許しようがない」
「許すなどというのは、自分を納得させる為の心理的なテクニックに思えてしまう」
というレヴェリアンの言葉には、だれもが共感してしまうのではないだろうか。
ルワンダにおいてクリスチャンだったレヴェリアンは、紛争時真っ先に逃げ出した聖職者に幻滅し、キリスト教への信頼も失っており、聖書にかかれているイエスの言葉のひとつひとつに、反論を繰り返す。一方で、彼は何度もイエスの像のまえに足を運び、「彼は殺されたツチ族の姿にそっくりだ」との深い印象をいだく。
レヴェリアン氏が負った痛手と、彼の人生に対する不信感は、本書を読んだだけでも強烈なものがあるとうかがえる。
だが、レヴェリアン氏は、亡命後、テレビで、冷酷な連続殺人犯が、被害者遺族に「許す」と言われたときだけ、無表情な顔を崩して泣いた場面を見て、深い印象を受けたという。
彼は許しという概念に不信を抱きながらも惹かれており、人生回復の1つの可能性としてさぐっている。
しかし、この作業はおそらく一生かかるのではないだろうかと重苦しい気持ちになった。
そして多くの被害者たちが同様の苦しみを背負って生きているのだろうと想像させられる本だった。