はじめに、非常に好き嫌いの分かれる映画であることを断っておく。
まず、映画は娯楽であると考える人には、楽しむのが難しい作品である。
かといって、ドキュメンタリー作品では決して無い。
リアリティを期待して鑑賞すると、裏切られることになるだろう。
むしろ、現実を下敷きにしたファンタジー映画と捉えるくらいが丁度良いのかもしれない。
ただ、残るのである。
強烈な何かが、良い意味でも、悪い意味でも、残るのだ。
このもやもやした後味を、単なる嫌悪感や共感で片づけず、その正体を考え込んでしまったら、
この作品はその人にとって、忘れられない作品になるだろう。
この作品の見所は2つある。
一つは、青春映画として優れている点だ。
思春期の描写を得意とする岩井俊二は、本作でも遺憾なく、その才能を発揮している。
学校の持つ、あの独特の閉塞感や、幼さと背伸びのギャップの間で揺れ動く思春期の心理描写は、見事に岩井節炸裂といった所である。
出演者のぎこちない演技も、却って中学生の人間関係のぎこちなさがダイレクトに伝わってきて、むしろ良い。
物語の前半は、淡々と進行し、中だるみを感じる点もあるように思える。
しかし、目を逸らすことの出来ない後半の怒号の展開は、一見の価値ありだろう。
思春期の暗い側面を見事に描いた傑作である。
もう一つの見所は、現代カルチャーの無力さを真摯に描いた点である。
作中のカリスマ歌手は、結局、作中の現実の救いにはなれなかった。
そして同様に、この映画も結局、現実の救いにはなれないのだ。
この作品のあちらこちらに、こういったメタ構造を備えたパーツが散りばめられている。
撮影者の存在をあえて強調したカメラワークやライティング、少年達が傾倒する歌手、リリイ・シュシュの薄っぺらさ。
「リリイ・シュシュのすべて」というタイトルが示すとおり、リリイ・シュシュはただの人で、エーテルも存在しない。
この映画は現代カルチャーの空虚さを見事に浮き彫りにしている。
そして、この映画自体が空虚な現代カルチャーの一部であるということに自覚的だ。
そこには、岩井俊二の作り手としての苦悩と自嘲が感じ取れる。
生きてゆくこと、物を生み出すことの根拠が次々と失われていく現代日本。
その一面を、作り手として実直に描いたことが、この映画が単なる社会問題を描くにとどまらなかった理由であろう。