河口にほど近く、広く、ゆっくりと澱む河。セイタカアワダチソウが茂るその河原で、いじめられっこの山田は、腐りゆく死体を発見する。「自分が生きてるのか死んでるのかいつもわからないでいるけど/この死体をみると勇気が出るんだ」。過食しては吐く行為を繰り返すモデルのこずえもまた、この死体を愛していた。ふたりは、いつも率直で、「かわいい」ハルナにだけは心を許している。山田を執拗にいじめ抜くハルナの恋人、一方通行の好意を山田に寄せる少女、父親のわからない子どもを妊娠するハルナの友人。それぞれに重い状況を抱えた高校生たちがからみ合いながら物語は進行する。そして、新たな死体が、ひとつ生まれる。
本書は、93年から94年にかけて雑誌「CUTiE」で連載され、94年6 月に単行本化されたものの愛蔵版である。発表当時から多くの若者の心をとらえ、何年経ってもその評価が揺らぐことはなく、新たな読者を獲得し続けている。もちろん「若者」であっても、共感できる人もいれば、できない人もいるはずだ。
だがはっきりと言えるのは、本書が「読み物」としての興奮を存分に読者に与えてくれるものだということ。痛ましく、凄まじいこの物語に、きっちりと「おとしまえ」をつけて描き上げることのできる著者の圧倒的な力量には、誰もが魅せられるはずだ。(門倉紫麻) --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。
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大人になってみると、構成やストーリーテリングに圧倒されて、どこをとっても文句のつけようのない作品だということに気がつく。また、高校時代の私も、憧れと劣等感でぐちゃぐちゃになりながら、この漫画にどうしようもなく惹かれていたのだということにも気がつく。
いつもどこか現実感がともなわない、高校生のハルナの毎日。オゾン層の破壊も、白骨死体も、人間関係も同じように。でも時には、河の向こうに、遠い海の存在を確かに感じることができて、誰かの心を、それが呼び起こしていくような自分の心を、確かに感じることができる、そんな瞬間がある。最後の橋の上での場面は、それをそのまま感覚に訴えかけてくる。
「僕らの短い永遠」。ウィリアム・ギブソンの詩から引用された言葉が、物語の中で控えめな光を放つ。作者が描こうとしているのは、一貫して、「僕」ではなくて「僕ら」だ。観念的な「僕ら」を作り上げるのではなくて、あくまでもそれぞれの「僕」の断片によって。
それらの構成は巧みだが無愛想。主人公の感情も緻密には描かれない。しかしその高めの視点は、主人公だけの物語ではなくて、青春の風景ともいうべき空気そのものを捉えている。
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