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16 人中、15人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
障害者当事者が書いた、史上最良の書,
By myco (tokyo) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: リハビリの夜 (シリーズケアをひらく) (単行本)
新潮45(2010年10月号)の新潮ドキュメント賞受賞特集を読んでいて興味を持ち、近所の大型書店で買った。その晩、読み上げた。出産時の酸欠で脳にダメージを受け、肢体の随意運動に障害が残る脳性麻痺患者として32年間生きてきた筆者が、体内の軋みや息づかいまで伝わってくるような肉感的な筆致で、その半生を日常をつづる。 (本書22ページより) 「脳性まひ」だとか「障害」という言葉を使った説明は、なんだかわかったような気にさせる力を持っているが、体験としての内実が伝わっているわけではない。もっと、私が体験していることをありありと再現してくれるような、そして読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。 つまり、あなたを道連れに転倒したいのである。 (引用終わり ※改行はレビュアー) 事実、わたしは座布団を敷いて寝転びながら「リハビリの夜」の章を読んでいる最中、何度も自分自身が筆者と道連れに転倒し、床に沈んでいくような感覚を覚えた。読みさしてふと立ち上がろうとしたとき、「自分が歩ける」という事実を忘れ、体がこわばって「倒れるのではないか」という不安が兆したくらいである。 そのくらい筆者は、身体的に喚起力のある文章を紡ぐことに成功している。 「障害者当事者もの」が陥りやすい、ナイーブな社会批判から来る臭気、あの「嫌な感じ」は皆無で、知性的且つ柔軟な身体性の宿ったすばらしい読み物だった。 次作にも期待しています。
9 人中、8人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
足が不自由ということ,
By 楽譜 - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: リハビリの夜 (シリーズケアをひらく) (単行本)
この本で最も興味を引いたのは,「足が不自由であるから2次元に住んでいる」という記述である.足が使えないということは高さのあるものに届かず,それらは自分と関係の無いものに感じてしまう.確かに筆者の内面を暴露するかのような箇所もあるが,それも2次元の世界の人の思考であり,足の自由な自分には全く想像がつかないものであった.この本は,2次元の世界の思考を言語化した類稀な本である.恥ずかしさ故かわざと難しい言い回しがされていることも多いが,これまでの人生での思考を文献に基づいて言語化し得た著者に敬意を表したい.また,障害者のリハビリの感想の吐露,障害者の自活方法の行い方の指南も面白い.著者の子供時代には「正常な動き」を強制するリハビリが主流であったようだ.それが結局うまくいかずトラウマを残すまでに至るのだが,自活を始めるにあたって,言わば「当たって砕けろ」的にハードルを一つ一つ越えていけば良いという示唆が,障害者達への良いアドバイスになっているような気がする. 他の方も仰っているようだが,次回は2次元の世界をもっと簡単な言葉で記述して欲しい.おそらくリハビリを仕事にしている人達,足の障害を持っている家族に福音となるだろう.また単なるハウツーの性格を持ち,自分がどのような機能的障害にどのように対処したかを羅列する本も出して頂ければと思う.
8 人中、7人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
『瞠目すべき障害者の世界』,
By 斉藤健志 (神奈川県) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: リハビリの夜 (シリーズケアをひらく) (単行本)
障害者という存在を、普通われわれ「健常者」は外から眺めるだけで、「障害」という現実が本人にとって如何なるものなのか窺い知ることはない。正直な所、大多数の人がヒューマニズムの視点から同情的に目を向けるか、或いは巧妙に関わりを避けるべくそれとなく目を逸らすかのどちらかの態度を取るのではないか。それはどちらも、「障害」という現実を直視していないと言う意味では、大差の無い態度と言えよう。この、われわれが窺い知ることの出来ない「障害」という現実が本人にとって如何なるものなのか、自ら脳性麻痺という障害を持ちながら小児科医でもある著者が、幼少期のリハビリ体験を語ることによって解き明かしてくれる。それは文字通り医者としての科学的な視点と、患者としての「感覚的な」視点の両面から語られてゆく。 特に後者において、著者は敢えて『官能的な』視点から、自らのリハビリ体験の現実を語る。それは、われわれ健常者がおよそ想像することも出来ないような、驚くべき「感覚の世界」であると同時に、(矛盾するようだが)全ての人間が大なり小なり共有する普遍的な「官能の世界」でもある。 無論それは、著者が蒙った脳性麻痺という一障害の、個人的な一事例に過ぎないのだが、ここには全ての障害に通ずる、否障害者どころか一般の健常者にも通ずる、普遍的な人間観がある。 障害を矯正すべく子供の頃通わされた夏のリハビリキャンプは、著者にとって健常者であるトレイナーらの目に「まなざされる」事によって否応なく「障害者」とされ、さらには健常者の動きを強制される中で「加害者と被害者」と言う暴力的な関係に曝される場でもある。と同時に、そこは課題をクリアーできないことによる敗北感に、一種の退廃的な官能を味わう場でもあった。そこには、健常者の性的快楽にも通ずる普遍性があるのではないかと、著者は憶測する。 一日のリハビリを終え、夜の闇の中でひんやりとした床の感触に身をゆだねると、自信なく怯えていた日中の私は、徐々に力を取り戻してゆく。それを著者は、不慣れな三次元の世界から、再び二次元の世界に戻ってゆく、と表現する。 障害者として、何と率直かつ、哀切な認識であることか? そして、後年成人した著者は一人暮らしをする中で、自分なりの運動イメージの下に、動きの自由度を獲得してゆくこととなる。その際に重要なのが、動きの中の「あそび」の存在だと、著者は言う。例えば、緊張し易い体質の著者は、パソコンで文字を打つときも全身全霊でキーを叩かねばならない。何故なら、著者の身体にはいわゆる「あそび」の部分が少ないため、一つの動作をするにもからだのあらゆる部分が一気に反応してしまうからだ。これは単に、自身の体についてばかりではなく、車椅子やトイレと言った「モノ」との関係についても言えることであり、延いては介助者や他者との関係についても言えることである。あそびの存在が、モノ同士の関係性に自由度を与えてくれると著者は言う。 また、障害者として避けられない「失禁」という事態についても、著者はそこに「退廃的とも言える恍惚」感の存在を見る。 一見自立したかに見える著者も、失禁の後始末にはやはり他人の助けが必要であり、そういう意味で「私の近くには常に交渉を必要とする他者がいる」との認識を忘れずに申し添える。だが、交渉すべき他者を必要とするのは障害者だけではなく、大なり小なりわれわれ健常者でもそうなのではないのか? 最後に著者はこう締めくくる。 「衰えは、ある意味では『敗北』を意味する。これまでなしえていたこと、享受できていたことの多くができなくなってしまうことは、当然ながら幾ばくかの痛みを伴う出来事である。しかし、それは同時に許しでもあるのだ。一人で立つ自分を失う一方で、一人で立てなくなったわが身が世界との拾いつつ拾われる関係を取り戻すような、つながりの回復でもあるのだ」 「リハビリ施設の高い窓から見た夕日の赤い色は、『がんばったね、もういいよ』と私をねぎらった。そして今、私の身にひたひたと近づいてくる衰えは、あのときの夕日の色をしているのである」 瞠目すべき障害者の世界と、すべての人間に共通する人間観とを語る本書を、広く一般の方々へお勧めしたい(H22.11.11)。
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