本書は東日本大震災を経て改めて露わになった、かつてとは状況が変わってしまった現代社会が、我々の想像力にどのような影響を与えているのか、文化批評の立場からまとめたものです。
村上春樹のエルサレム賞でのスピーチを手がかりに、「壁=システム」と「卵=我々」という単純な対立項は、現代においてなりたたず、我々の生活に入り込み絶えず更新していくような渾然一体と化したシステムのあり方をリトル・ピープルと呼びその有り様を様々な媒体の表現の中から探っていきます。
このように要約すると、理解できるのですが、しかし内実はあまりにもおおざっぱで、本当にそうなのか? と疑問に思いながら読み進める内、また疑問が生まれと、論旨は追うことができるのですが、いちいち納得できないので、結局読んだ意味があったのか、と思い返さずにはいれません。
たとえば、問題設定の序章部分で村上春樹の短編「かえるくん、東京を救う」から、腹をたてると大地震を起こすがなぜ腹を立てるのか何を考えているのかわからない「みみずくん」を紹介し、何も理解できないし制御もできないことから福島の原子炉と重ね合わせます。そして以下のように述べます
「私たちの世界そのものを揺るがし得る大きな、とてつもなく大きな存在でありながら、世界の〈外〉ではなく〈中〉に存在するもの(略)そんな存在が、露呈したことが、この国の人々を戸惑わせているように思える/言い換えればそれは「大きなもの」をとらえる想像力の不足ではないだろうか、(略)世界の構造のようなものをイメージする力が、変化する現実に追いついていないのだ。そのことが、ある日以降、この国の人々を苛立たせているように思えてならない」
とありますが、2点。
本当に、「「大きなもの」をとらえる想像力」が不足しているのだろうか。ここから、国民国家を超えるグローバル資本主義へと話が進められますが、まず「「大きなもの」をとらえる想像力」の不足がどのように起こっているのか、きちんと言ってくれないとまず議論の大前提ができあがらないので、砂上の楼閣です。あやふやなままの出発なので、その後に続く議論は足下が固まらないのですべて妥当性が留保されます。突き放して言うと、ただ最近の流行の文脈に乗った「イメージ」で語っているだけのように見えます。
そうした論証とは違う認識のレベル。「この国の人々を苛立たせているように思えてならない」とありますが、原発の話で言えば、人々が苛立っているのは「世界の構造のようなものをイメージする力が、変化する現実に追いついていない」からではなく、端的に発表される・視界に入る情報の真偽を判断することができないからなのではないでしょうか。情報の何が正しくて正しくないか、専門家でさえ言うことが違う状況で、我々は「イメージ」などではなく、現実にどうしたら良いかを判断できずに苛立っているのだと思います。
以上はほんの一端ですが、このように一事が万事氏は自身の「イメージ」だけで話をすすめているようにしか読めず、残念ながら内容について感心することができませんでした。これが、誰にでも読めるような開かれた批評として氏が目指しているものなのでしょうか? 氏が毛嫌いする「文体分析」の「誤読芸」でさえ、一時の誤読の面白さを提供するというのに、ここでは我々の社会・文化を扱うのだ!と妙に息巻いている分空しさが漂います。
もちろん批評の役割として、鋭い視点から我々の蒙を啓くという役割がありますが、前著の『ゼロ年代の想像力』にあった「決断主義」のような(これも)粗いながらも興味深くそう言われればそうとしか思えないような面白い構図の提出もありません。