編集プロダクションに勤める「私」はシンデレラのお話に疑問を持っている。主人公よりも継母など脇役たちばかりが目立って仕方がないストーリー。勤務先の社長・矢作も「私」同様、継母たちの意地悪に打ち勝つことを良しとするシンデレラの価値観に違和感を持ったといい、ある女性について取材してノンフィクションを書いてみないかと「私」に持ちかける。倉島泉(せん)というその女性を追う「私」は、幸せとは、美しいとは、そして善きことというのがどういうことなのかに思いを馳せることになっていく…。
主人公であるはずの泉は、この小説にあまた登場する人々よりも一歩退いた感の強い存在として描かれます。親や周囲の男性の愛情も妹の深芳(みよし)にばかり向けられ、シンデレラ=灰かぶり姫に照らすように、野菜農園を自ら切り開いて泥だらけの泉は周囲に顧みられません。
しかしシンデレラと泉とを画すのは、泉が自分をとりまく人々を見返すための何かを待っているわけではないという一点にあります。泉は偏僻(へんぺき)することなく、静かに己の分(ぶん)をわきまえたかのごとくに、やさしく人生を歩んでいくのです。
小説全体を通して立ち現れる泉の確かな豊かさを思うとき、その豊かさを豊かさと感じるだけのゆとりが今という時代や社会に失われていることに思いが立ち至ります。
前へ出ること、自分の幸福を実現すること、そのことに汲々とすることこそが第一義とされる今、人は肉食系を良しとし、そうではない人々を草食系と嘲弄する世界が広がっています。そこに身を置けないと思った者の中には自分を社会から遮断することでしか心の安寧が得られない人々もいます。
そんな今へのアンチテーゼのように置かれた泉の物語は、読者に清々しさを感じさせないではおかない稀有な物語となっています。
今の時代に書かれるべくして書かれた小説。
そんな思いを強くさせる、すぐれた長編です。