新旧のおたく/オタク批評家の中でいえば、ネームバリューはおそらくトップクラスの二人が、2001年、2002年、2007年、2008年と不定期に行った対談集。動ポモ2を読めばわかるが、東浩紀は大塚英志の批評や理論に多分にインスパイアーされている。がしかし、この本では二人の考え方の違いが露骨に現れている。
自称「戦後民主主義者」の大塚がこの対談でくどいほど繰り返して東に問うのは、「批評家の責任」と「公共性」(いわば万人共通の“リアル”)。彼が言いたいのは要するに、近代文学批評によって形作られていた公共性が崩壊した現代において、新しい形の公共性を構築することが批評家とその書くものに課された責務ではないのか、ということだ。新しい世代の批評家の怠惰に対する、大塚のその疑問とも怒りともつけがたい感情が、おそらく世代きっての論者である東にもろにぶつけられる。
しかしそれに対して東は、ここまで島宇宙化が進展した現代においてそれは不可能だとやんわりとかわし、これからは公共性に代わり、どうすればリソースが均等に再配分されるかという技術的、システム的な問題になるだろう予期する。批評にはもうリアルを構築する力はないと言い切るのだ。すると今度は、じゃあなんで批評するの?と大塚が食ってかかるのだが、東は「友達を増やしたいから」と返す。
その後も二人は手を代え品を代え、同じような問答を繰り返すのである。大塚がたびたび、「ここで対談を終わらせてもいい」と言って東を挑発するのだが、本当にそこで対談は終わってよかったりする。繰り返しているだけなのだから。
ところで、この対談集自体は、近代的なのだろうか?ポストモダン的なのだろうか?
近頃の、お互いを褒め称えるだけの生ぬるい他の対談集に比べれば、ずっと闘争的でありその意味では近代的である。しかし、お互いの話が通じていないという意味では、そして無駄に長々と量だけがかさばる本になったという意味では、ポストモダン的でもある。