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学問的アプローチについて評するならば、従来の「参与観察」を否定し、生活を共にしてみる、そして彼らの「共同幻想」を受け入れる(というより、信じる)という歴史アプローチはまさに画期的なものだ。しかし、この本の真価はその新しいアプローチを提唱したことではない。こうして得られたアボリジニの「歴史」を「神話」と捉えるだけでは、知的コロナイゼイションという旧タイプの文化人類学と変わりがない、と著者は主張する。これを「歴史」として受け入れるためには「そういう考え方もありますね」と認める「文化相対主義」では十分ではなく、「信じる」ことができなければならない、という視点こそが、この本で打ち出された一番の功績だとわたくしには思われる。
どうしたら「信じられる」のだろう? 著者はアボリジニとの共同生活を通じ、そういった「歴史観」を持つのが自然であり、かつ生活に有用な環境に身を置いていた。自分と異なる歴史観を持つ方々のそれを理解するためには(例えば「自虐史観」と「修正主義」のあいだ)、決してアタマでは理解できず、もっと肉体的な面も含めた濃厚な接触や共同生活が必要かもしれない、という可能性を示している。
オーラル・ヒストリーに、その限界を超える新たな思想を付け加えた著者のあまりにも早い逝去は本当に惜しまれる。慎んでご冥福をお祈りしたい。
でも、いまや、架空の人物を設定しなくても、リアルでタヒチの老人や南海の酋長ツイアビの言葉を得ることができる。しかも、それを歴史学批判として構成しながら。というのが、『ラディカル・オーラル・ヒストリー』の試み。04年5月、オーストラリアで癌によってお亡くなりになった保苅実さんは、オーストラリアの先住民であるアボリジニのコミュニティに入り、ジミー・マンガヤリ老人と出会い、アポリジニの歴史を語ってもらう。その博士論文の日本語訳を中心したのがこの本。
どこがラディカルかというと、アポリジニによる土地返還要求のキッカケが、コミュニティを訪ねた米ケネディ大統領によって直接、インスパイアされたものであるとか(もちろんそんな事実はない)、白人の牧場が洪水に襲われたのは、ヘビの神が願いを聞いてくれたなどの話をそのまま"歴史"として受け入れる態度にある。そこで問いかけられているのは、近代の歴史家が構成してきた"裁判所が証拠として取り上げることが可能な歴史"が本当に歴史のすべてなのか、という歴史学批判であり、アポリジニたちの口伝による歴史の伝承方法がそれに対する批判の実践になっているということなんだと思う(保苅さんによると「歴史をメンテナンスする」行為)。ジミー・マンガヤリ老人による「道とは東から西へという太陽の動きにある」みたいな説明は多少感動。
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