ついにジジェクが書いた、ラカン入門。直訳すると『ラカンの読み方』。
ジジェクはこれまでにいくつも著作を出してるが、これはその総集編といえるかもしれない。
ご存じの通り、ジジェクのスタイルは厳密な意味での「ラカン読解」ではない。
ラカンの用語や図式などを、微に入り細に入り解説してはくれない。
そのかわり、ジジェク得意の「ねじれた」もの言い、通称「ジジェク節」でラカン的思考パターンを次々に陳列してみせる。
たとえば、「男は女に化けることしかできない。女だけが、女に化けている男に化けることができるのだ。なぜなら女だけが、自分の真の姿に化ける、つまり女であるふりをすることができるのだから。」(本書195ページ)という箇所。
これは、ラカンの「女は存在しない」という発言のパラフレーズである。
この発言はとかく評判が悪く、フェミニズム方面からの批判も多い。しかし、これは決して女性蔑視の発言などではない。
ラカンは、「『これが女性だ!』と語った途端、そこからすり抜け、抜け落ちてしまうのが女性の本質であり、つまり女性の本質などというものはない」と云っている。
「定義不可能」というのが、唯一可能な定義なのである。
これは、言葉=シニフィアンの根底にあるのが「父の隠喩」という、特別なシニフィアンであることと関係がある。
要は、「これは〜だ」というような語り口はそれ自体が「父=男性」的な身ぶりなのである。
女は、いつでもそのような身ぶりの「向こう」にしか存在しない。
「女は存在しない」というのが、女性に固有のありよう(?)なのだ。
さて、「女に化ける男」は、本当は男である。
しかし、「女に化ける男に化ける女」とは、いったい何なのか?
それは当然ながら男性ではないし、困ったことに女性でさえない。本当は女性であるならば、そもそも「女性のふり」など出来るはずがないのだから。
積極的に定義される「本質としての女性」など存在しえないがゆえに、「ふりをするふり」という二重の欺瞞によってはじめて女性は女性たり得るのだ。
このように、ジジェク節の「ねじれ」はラカン的思考をよくとらえている。
思えば、ラカンが好んだ「メビウスの輪」という図形は、表がいつの間にか裏になり、裏がいつの間にか表になるという、ねじれた「輪っか」のことだった。