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21 人中、15人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 4.0
ラカン入門,
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レビュー対象商品: ラカンの精神分析 (講談社現代新書) (新書)
おそらく、日本語で書かれたラカン入門としては最も分かりやすいものです。しかし、「一番分かりやすくてこれか!」という憤りを感じる人もいるかもしれません。 ラカンがまるまるすっきり分かってしまう、というわけにはいかないでしょう。 (おそらく、ラカンという人はある明確な意図をもって「分かりにくさ」を追求した人間です。それが善意によるものか悪意によるものかは分かりませんが) 著者の新宮氏は、ラカンの「対象a」という用語を「黄金数」という概念によって解説しています。 黄金数というのは、たとえば長方形の〈 長辺 : 短辺 〉の長さの比が、〈 長辺+短辺 : 長辺 〉の比と同じになるような関係のことです。 具体的な数字でいうと1:0.618…です。いわゆる「無理数」ですね。 ラカンは、この比(黄金比)が人間関係にも当てはまると主張しています。では、実際にこれを「人間同士の関係」に置きかえるとどうなるでしょうか。 それは、「私があなたを見つめる」という関係が、「私とあなたが私を見つめる」という関係に等しくなるということです。 〈 私 : あなた = 私+あなた : 私 〉という「比」ですね。 このとき、〈私+あなた〉というのは「他人」とか「みんな」のことだと思って下さい。 もしこの二つの関係が等しいとすれば、「私があなたを見る」とき、私はみんな(私+あなた)の視点から自分自身を見ていることにもなるでしょう。 「私とあなた(みんな)が私を見つめるように、私はあなたを見つめる」です。 この「あなた」を見つめるのと同時に見出された「私」、これこそが「対象a」にほかなりません。 この「私」は「みんなにとっての私」ですから、それはある意味「ほんとうの私」に一番近い存在でしょう。 つまり「対象a」とは「ほんとうの私」のことなのです。 すると、「私」にとっては「あなた」という他人が「ほんらい私のものであるはずの本当の私(対象a)を隠し持っている人」として見えてきます。 もちろん、「あなた」はそんなもの持っていません。「私」の一方的な勘違い、思い込みです。 「他人の中に私を求める」、これが人間関係を成立させる基本的枠組みだとラカンは云います。 人はいつでも、「私には(ほんとうの)私が欠けている」という不安定な状態で、他人との関わりを求めることになるのです。 これを、ラカンは「関係は、すれ違い(失敗した関係)という形でしか成立しない」という風に結論づけています。 こんなネガティブなラカンですが、いっぽうで「あなたの(他人と関係したいという)欲望をあきらめてはいけない」とやたら前向きなことを言ってもいます。 この意外性(?)が、彼の思想の魅力なのかもしれません。支離滅裂だと思う人もいるでしょうが…。
20 人中、14人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 3.0
臨床か思想か,
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レビュー対象商品: ラカンの精神分析 (講談社現代新書) (新書)
ラカン理論は臨床に留まらず、精神分析を超えて、人間存在を規定するもの、人間のありようを証明するものとして、哲学的・思想的な 価値を有するものであると考える。その傾向が強いがゆえに、臨床的 にこれがどのように活用されるのか、患者さん理解にどうつなげられ るのか、といったことが削り取られてしまっており、臨床的有用性の 観点から少し物足りなく感じてしまうところである。 精神分析は臨床の中から生まれ、臨床の中で活用されるものである 。しかし、ラカン理論は臨床の中で活用されるというよりも、思索的 に活用されることが多いように思う。ラカン理論を研究している人は 、臨床家よりも哲学者や思想家、文化人に多いことからもうかがえる 。精神分析臨床をしている人は自我心理学−クライン派−独立学派− コフート派−対人関係論学派を基盤にしている人が多いのではないだ ろうか。こういう風になっているのも色々な歴史的経緯が関係してい ることが考えられる。 ラカンの独特な考えや思想、技法はIPAの考えとはかなり異なっ ており、IPAからは破門に近い形でラカンは追放されている。IP Aに属さないということは、精神分析家や教育分析家と言えなくなる ということであり、臨床指導ができないということである。ラカンは その代わり、教育機関において臨床家対象ではなく、哲学者や思想家 、文化人を対象としたセミナールを開講することとなった。対象がそ ういう人であったために、臨床というよりは思想的な観点が強調され ていったのではないかと思われる。ラカンは臨床実践を軽視するなと いったり、パリフロイト派を立ち上げたりの活動はしていたようだが 。こういうところから、ラカンが臨床家ではなく、非臨床家を中心に 思想が展開して行ったのではないかと思われる。
39 人中、25人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
高校生にもわかるラカン,
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レビュー対象商品: ラカンの精神分析 (講談社現代新書) (新書)
高校生にもわかるラカン若い人たちからラカンについて書かれた本で何かよいものはないか、と訊かれた際、私は必ず本書を薦めることにしている。入門書というのは大抵わかりやすくすると言いながら、失われるものも多いのだが、本書は例外で、極めて明解にわかりやすくラカンの伝記的事実と理論的エッセンスをコンパクトかつ盛り沢山にまとめている。新書であることを忘れてしまうくらいに内容は濃密である。入門書としては申し分がないと言ってよいだろう。これに飽き足らない人は「セミネール十一巻」などを読まれるとよいのだ。 通常の入門書では、生物学や自我心理学などの影響下、通俗的解釈によって、本質的なものが捉え損なわれてしまっている事が少なくない。 例を挙げると、初期ラカンの鏡像段階論は「わたしがサルではなく、何故人間なのか」といった存在論的問いをすでに内在化するものであり、「物の殺害」、「他者の承認」、「象徴化」、「パラノイア的態勢」などといった極めて精神分析的な概念群を萌芽として包括的に扱っているのである。しかし、通俗的な解釈はこれを「単なる発達論に過ぎない」などと述べて多様な含蓄を理解できずに、哀れにも無知の尻尾を現すのである。 私はタイトルに「高校生にもわかる」と書いたが、付け加えねばなるまい、「それでもサルにはわからない」と。
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