おそらく、日本語で書かれたラカン入門としては最も分かりやすいものです。
しかし、「一番分かりやすくてこれか!」という憤りを感じる人もいるかもしれません。
ラカンがまるまるすっきり分かってしまう、というわけにはいかないでしょう。
(おそらく、ラカンという人はある明確な意図をもって「分かりにくさ」を追求した人間です。それが善意によるものか悪意によるものかは分かりませんが)
著者の新宮氏は、ラカンの「対象a」という用語を「黄金数」という概念によって解説しています。
黄金数というのは、たとえば長方形の〈 長辺 : 短辺 〉の長さの比が、〈 長辺+短辺 : 長辺 〉の比と同じになるような関係のことです。
具体的な数字でいうと1:0.618…です。いわゆる「無理数」ですね。
ラカンは、この比(黄金比)が人間関係にも当てはまると主張しています。では、実際にこれを「人間同士の関係」に置きかえるとどうなるでしょうか。
それは、「私があなたを見つめる」という関係が、「私とあなたが私を見つめる」という関係に等しくなるということです。
〈 私 : あなた = 私+あなた : 私 〉という「比」ですね。
このとき、〈私+あなた〉というのは「他人」とか「みんな」のことだと思って下さい。
もしこの二つの関係が等しいとすれば、「私があなたを見る」とき、私はみんな(私+あなた)の視点から自分自身を見ていることにもなるでしょう。
「私とあなた(みんな)が私を見つめるように、私はあなたを見つめる」です。
この「あなた」を見つめるのと同時に見出された「私」、これこそが「対象a」にほかなりません。
この「私」は「みんなにとっての私」ですから、それはある意味「ほんとうの私」に一番近い存在でしょう。
つまり「対象a」とは「ほんとうの私」のことなのです。
すると、「私」にとっては「あなた」という他人が「ほんらい私のものであるはずの本当の私(対象a)を隠し持っている人」として見えてきます。
もちろん、「あなた」はそんなもの持っていません。「私」の一方的な勘違い、思い込みです。
「他人の中に私を求める」、これが人間関係を成立させる基本的枠組みだとラカンは云います。
人はいつでも、「私には(ほんとうの)私が欠けている」という不安定な状態で、他人との関わりを求めることになるのです。
これを、ラカンは「関係は、すれ違い(失敗した関係)という形でしか成立しない」という風に結論づけています。
こんなネガティブなラカンですが、いっぽうで「あなたの(他人と関係したいという)欲望をあきらめてはいけない」とやたら前向きなことを言ってもいます。
この意外性(?)が、彼の思想の魅力なのかもしれません。支離滅裂だと思う人もいるでしょうが…。